読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『有についてのカントのテーゼ』(原書 1961, 1963 理想社ハイデッガー選集20 辻村公一 訳 1972) 超越論的統覚と論理学

大事なことが語られることはなんとなくわかるが、読み取るのが難しい。訳文が旧字旧仮名なので輪をかけて難しくなっている。また今度に備えてメモ。

【カントの『純粋理性批判』の中での注解(§16, B134, Anm.)】

かくして統覚の総合的統一は最高点であり、その点にひとは一切の悟性使用を、論理学全体さえをも、そしてそれ<論理学>に従って超越論的―哲学を、結び着けねばならないのである、まことにこの能力〔上に言われた統覚〕は悟性それ自身である

 

ハイデッガーの注解】

論理学全体が超越論的統覚という場所の内へ編入されて秩序づけられている場合に初めて且その場合にのみ、論理学全体は、感性的直観の所与に関係づけられた批判的有論の内部に於いて機能を、すなわち有るものの有の諸概念(諸範疇)と諸原則とを規定するための手引きとしての機能を、果たしうるのである(p38)

 

【さらにハイデッガー

古来、思惟の理論は「論理学」と称されている。ところで併し、思惟が、有へ関わるその関聯に於て、地平先与として且又機関として、二義的であるとすれば、その場合には、「論理学」と称されているものも亦、上記の観点に従って二義的であることを免れないのではないか。その場合には、有の解釈の機関としての且又有の解釈の地平としての「論理学」は徹底的に問に値するものになるのではないか。この方向に向かって推し進む省察は、論理学に反対するのではなく、λόγοςすなわちその内に於て有がそれ自身を思惟に属する思惟に値するものそのものとしての言葉に齎しているところの言うということ、そのことを十分に規定するために尽瘁するのである。(p71-72)

 

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形而上学入門』での「存在限定の図式」に当てはめると、「論理学」や「言葉」はどこに入るかといえば「思考」位置が妥当なのだろうけど、言語や記号は存在するものであるから「仮象」あるいは「生成」の位置にもかかっているし、論理形成や言語使用は行為であるから「当為」の位置に属していないとは言えない。存在をめぐる四つの外の現われすべてに属していそうだ。ハイデッガー的には「存在」が一番の本質で、そこから現わされるものはものは二義的なのもになってしまうのかもしれない。ただたとえ二義的であろうと、そこでの省察が尽瘁するまでに至るということは稀であり尊いものであるとは思う。


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
辻村公一
1922 -2010