読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジル・ドゥルーズ+アンドレ・クレソン『ヒューム』(1952)

ドゥルーズアンドレ・クレソンによるヒューム哲学の簡便な紹介。因果性批判と習慣の力の哲学者、ヒューム。アンドレ・クレソンの紹介文のほうが平明。

物質的実体についてわれわれが云々する原因は究極的にはひとつしかない。それは、いつも一緒に与えられているいくつかの性質があるからなのだ。互いに隣接するものとしてつねに表象されるがゆえに、これらの性質は実に強く連合される。そうした連合は強力なものと化して、遂にはこれらの性質は不可分なものと化す。そして、諸性質のあいだに確立された絆が非常に強固なものと化すとき、われわれは実体的絆なるものを思い描いてしまうのだ。もっとも、実体的絆なるものは、習慣がわれわれのうちに造り出した実に強力な連結によって、われわれのうちにのみ実在するのだが。(アンドレ・クレソン担当 第二章「哲学」p43 太字は実際は傍点)

ドゥルーズの文章は凝縮度が高いので、繰り返し咀嚼する必要があるかも知れない。味わいも濃いめだ。

自然な同情・共感は、道徳性に不可欠な条件であり、その唯一の手段である。道徳的本能なるものが存在する。とはいえ、それは道徳に十全な実在を与えることができない。事態はむしろ逆なのだ。道徳性とは自然・本性の要請ではあるが、自然・本性それ自体はこの要請を満足させることができず、むしろ逆に、それを破壊してしまうのである。そもそも、道徳的世界はいかにしてその実在を確証するのだろうか。道徳的世界の事実、それは正義(justice)である。言い換えるなら、評価の不変的性格ないし不偏不党性であるが、それはまた、隔たりと遠き者でもある。ある道徳的美質が中国で見いだされるにせよ、イングランドで見いだされるにせよ、また、それが自分の友人に属するにせよ、自分の敵に属するにせよ、われわれは同じ道徳的美質に対して、同じ称賛の念を呈する。それとは逆の極点にあって、自然な同情・共感の事実とは何なのか。それは偏向(partialité)である。それも、かかる変更のいかなる侵犯もがわれわれに背徳的なものと映るほどの偏向である。自分の家族よりも余所者を好む人物は、自然・本性にもとる人物とみなされる。そして、このような偏向が複数存在すること、それが矛盾であり暴力なのだ。ある者にとっての近き者、同類、親族は、他の者にとっては見知らぬ余所者なのだから。それゆえ、矛盾に代えてありうべき会話をたて、暴力に代えて所有権をたてることが、道徳的世界の操作であることになろう。ということは、この操作は自然なものではなく人為的なものであるということだ。(ドゥルーズ担当 第四章「業績補遺」p68-69)

 

けものにならないための人為的な道徳的世界の操作。困窮するとけものになりやすいのでそれなりに余裕があるほうがよい。距離を置いて並置共存できる余裕。無関係ということにもしておける贅沢。

 

www.chikumashobo.co.jp

ヒューム
1711 - 1776
アンドレ・クレソン
1869 - 1950
ジル・ドゥルーズ
1925 - 1995
合田正人
1957 -