読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョー・ブスケ『傷と出来事』(原著 1973, 谷口清彦+右崎有希訳 河出書房新社 2013)

本書の原題は『神秘なるもの』であり、日本語題の『傷と出来事』は訳者からの説明はないものの、ジル・ドゥルーズが『意味の論理学』(1969)でジョー・ブスケを論じた第21セリー「できごとについて」に由来すると考えられる。

『意味の論理学』の原注では、「ジョー・ブスケの作品は、すべてが傷・できごと・言語についての考察である」と端的に示されていて、本文においては「非人称的・前個体的・中性的」な出来事を出来事のまま理解し引き受けることの輝きが素描されている。「われわれに起こることにふさわしい者になること、したがって、われわれに起こることからできごとを望み、引き出し、それ自身のできごとの子になり、それによって再生し、生まれ変わり、肉から生まれた身と絶縁することである」(訳:岡田弘宇波彰 法政大学出版局)と、起こることにたいする運命愛とその愛のはたらきが示されている。

ドゥルーズのほかにもブランショシモーヌ・ヴェイユなどにも影響を与えたジョー・ブスケ。本書のなかにはジャン・ポーランアンドレ・ジイドと親しく交流している様子もうかがわれ、フランスにおいて大きな存在感のある作家であることが分かる。

第一次世界大戦フランス軍に志願入隊し、1918年5月の対ドイツ軍との戦闘で銃弾を受け、脊髄を損傷してしまい、21歳の若さで半身不随となり、ベッドの上での生活余儀なくされる。シュルレアリスムの運動に出会い、7年後にはじめての著作が刊行されてから、1950年の死にいたるまで途切れることなく作品が世に出されていた。日本語での単著初訳となる本書は、生前ブスケが日々詩想を綴っていた「白色ノート」といわれるものを編集し死後出版したもので、アフォリズムとメモ書きが混在するような雑多な印象がある。ほかの著作との比較ができないのが残念だが、生前刊行された小説や詩集にくらべれば、一冊の本としての凝集力は劣っているのではないかと考えられる。どこからでも拾い読みができるという点や、思索や創作の過程に気安く触れられるという点で、作家のノートに触れる利点は大いにあるだろう。注目に値する作家の日々の創作の現場に触れているようで、自分もノートを溜めながら自己観察と自己展開を図っていけばいいのかもしれないと思わせてもくれる。

比較的閾が低い作品であったためか、訳書刊行による日本の読者層への影響の波及は持続せず、その後継続しての訳書刊行にはいたっていない。ブスケの文章と訳者のあとがきを比べても、訳者あとがきのほうが凝縮されていて、作家としてのブスケの凄さがよく伝わってくるというのも、褒められたことではないだろう。ドゥルーズの批評文から期待して手に取った人も、評価に間違いはないにしてもすこし肩透かしを食わされたようなもの足りなさが出てくるであろうと思う。

誰もが自分自身に囚われの身であり、誰もがその牢獄の壁だけに言葉を書きつける。だがその牢獄が彼に解放をもたらすのである。

フランスの詩人たちが紡ぐ言葉のなかによく見られる認識を、傷を受けた身体をもとに表現しているところにブスケの特色があり、ブスケに起こる出来事の特異性を形づくっている。日常の忘備録的なメモがはさまれていたりすることで、つねに切迫感のある作品記述にはなっていないがために、「牢獄」や「解放」といった言葉の強度を薄めている印象があるけれども、ブスケがいかなる作家であるかを知るためには、本訳書が貴重な役割を果たしていることは疑いようがない。

なお、ブスケの文章(書簡)が読める著作として、大木健著『カルカソンヌの一夜-ヴェイユとブスケ-』(朝日出版社 1989)があるらしい。ブスケの印象に新たなものが付け加わるかもしれないので、いつか手に取ってみたい。

 

www.kawade.co.jp

【付箋箇所】
10, 32, 42, 45, 55, 77, 80, 103, 109, 183, 191, 199, 206, 208, 228, 243, 274, 277

ジョー・ブスケ
1897 - 1950