ゲイであることをカミングアウトしている気鋭の哲学者千葉雅也と、能動的な男優以外の演者を中心に据える斬新な演出を繰り出すAV監督二村ヒトシと、戦闘的フェミニストでSNS上で炎上上等の言論活動を繰り広げてもいる彫刻を中心に活動する現代美術家柴田英里という、クセの強い三人による鼎談。
性にこだわりの強い三人であるがゆえに、性をめぐる欲望について焦点があてられているのは当然として、性に関する話題に積極的にかかわる欲望の薄い読者層にたいしても、言語によるコミュニケーションの場にあらわれる欲望や発情の形態について深掘りしているところがいい具合にヒットしてくれるので、かなり間口は広い議論になっている。
敵は容易に正義を振りかざして自身の立場は揺るがない怒れる人々、傷ついていることを資本として呪いの言葉を発する自称弱者。
なんだかニーチェが話題に上ってきそうな空気だが、ニーチェは顔を出さず、現代フェミニズムの面々とラカンの精神分析とデリダの脱構築が骨格を作っている。
議論のまとめ役的な立場である千葉雅也の専門はドゥルーズではあるが、スピノザを言祝ぐドゥルーズよりも、ヒュームを言祝ぐドゥルーズに親和性を持っているところが特徴的で、さらに『勉強の哲学』では『マゾッホとサド』のマゾッホの倒錯とユーモアに強く影響された議論を展開していて、本書にはその資質の部分がかなりストレートに出ている印象がある。
千葉雅也と蓮實重彦の対談が実現しないかなあというのが本書を読んでの第一番に喚起された私の欲望。
つぎに柴田英里の単著と作品集の刊行、柴田英里と草間彌生の対談の成立。
二村ヒトシさんのAV談義は今後読むことはあってもAV自体はエロを求めて探すことはないなあ。齢だし。
私の場合は、言語優位の欲望人生だと確認できた書物。
目次:
序
第1章 傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
第3章 普通のセックスって何ですか?
第4章 失われた身体を求めて
終 章 魂の強さということ
文庫判増補1 <人類移行期>の欲望論
文庫判増補2 個人と社会のあいだで