読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

山内志朗『ドゥルーズ 内在性の形而上学』(講談社選書メチエ シリーズ極限の思想 2021)

ドゥンス・スコトゥスを中心に中世スコラ哲学に関する論考が多い哲学者山内志朗が自身のドゥルーズ体験を交えながら、中世スコラ哲学の核心部分を受け継いだ者としてのドゥルーズを描く一冊。どちらかといえばマイナーなたとえによる解説と独特な賛嘆の表現はアクがつよくて、好みは分かれるところだと思うが、スコラ哲学の自身研究をベースに、ストア派から新プラトン主義と中世スコラ哲学を経由してスピノザライプニッツ、ヒューム、カントの近代思想の潮流のなかにドゥルーズを位置づける作業は注目に値する。

非物体的なものとは〈語りうるもの〉〈レクトン〉である。〈語りうるもの〉は、空虚や時間や空間と同じように存在しないものである。存在と互換的なものは超越概念として呼ばれる(存在、一、善、真、〈或るもの〉、〈もの〉の六つ)。非物体的なものは存在者ではない。外にも内にもなく、主語述語形式の命題の中に取り入れると、肯定否定、いづれの述語も排除するようなものとして記述されることになる。アヴィセンナが「馬性は一でも多でもななく、馬性以外の何物でもない」と述べたことは、この事物の圏域を踏まえている。ストア派が開いた〈語りうるもの〉の領域は、新プラトン主義を経由して、中世スコラ哲学に流れ込み、大きな潮流をなし、近世に入って表面から消え、二十世紀に巨大な伏流水としてドゥルーズにおいて現われる。しかし、マイノング主義やイスラム哲学においても、この論点は繰り返し述べられてきたことだ。
(第一章「ドゥルーズという烽火」p36 )

哲学史の伝統を踏まえながら目覚ましい思索と表現を放ったドゥルーズの思想の受け止め方を、古代哲学と中世哲学の汲み尽くせぬ厚みのなかから山内志朗が独特の語り口で提案してくれている。

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【付箋箇所】
23, 32, 36, 62, 74, 93, 101, 107, 130, 132, 135, 151, 152, 157, 163, 192, 220, 245

目次:
第一章 ドゥルーズという烽火
第二章 存在一義性という革命
第三章 前哨としての内在性
第四章 ドゥルーズと狂気
第五章 表面という魔物
第六章 特異性と個体化との相克
第七章 無人島と可能世界

山内志朗
1957 - 
ジル・ドゥルーズ
1169-1206
ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス 
1265-1308