いまの世の中、どちらかといえば失敗していると思っている人のほうが多いのは確かだ。どうにかしたいと思って足掻いているあいだは、自己正当化バイアスがより強くかかっているので、自分の体験からいえば結構つらい。そういう時には瞬間腑抜けになって、ダメになっても最低限大丈夫な自分というものを考えてもいいんではないかと思う。なるようになる以外の想定外の「なる」は、なってみなければわからない。それは(いまの)オレは知らんよ。その時のオレが考え足掻きますよ・・・、と考えを押しやる。いまどうにかできることに注力する方が精神衛生上はいい。
かつて、将来の経済成長の中心として称賛された、主なBRICs諸国に(ブラジル、ロシア、南アフリカ)は、腐敗と停滞に陥っている。また、西アフリカや東南アジアでは「失敗した国」が増え続けている。
(「資本主義の限界」p124)
ここ20年、右翼以外の政党が掲げていた「国際化をすることが国民に恩恵をもたらす」という公約への期待が、次第にはげおちてきたことです。誰もが国際化の恩恵に浴してきたわけではありません。恩恵に浴せなかった人々の不満が露呈してきたのです。そういうグローバリズムに満足していない国民が急速に増えたことに伴って、国内政治により焦点を当てた新たな政党が支持されるようになってきたのです。
(「資本主義社会の敗者に目を向けよ」p155)
どちらかというと、失敗したと思ってしまった人たちと付き合うことになったときのほうが、警戒心は高くなる。あわよくば、好転したいという気持ちはわからぬでもないが、利益配分や成功体験、実績蓄積は、作業プロセスのなかで妥当な評価値を超えて得られるものではない。分相応というものを知っておいた方が要らぬ争いは生まないとおもう。ただ、そのとりあえず妥当と思って従っている生産性に関する評価軸のなかで、時に突出した個人が生まれてしまうのは、評価制度としては危うさを多分にもっていると思う。公開情報を見る限りでは、既成制度のなかで生まれた成功者たちからは、自身の立ち位置からの寄付や研究についてさまざまな発信がなされているとおもうので、傍観者的な位置にいる私としては、制度側すなわち現状の統治側・維持調整側からの妥当で刺激的な応答・発信をじっくりと待って、比べてみたい。過剰な期待をもつことなくじっと待つ。どちらにしろ、できる限り検証して一般に受け入れられる水準が現われ安定してくれることが現実的にはいちばん望ましい。新たな共生と競争のフィールド。「資本主義」、「共産主義」、名前はなんでも構わない。
ヴォルフガング・シュトレーク
1946 -