読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ギュスターヴ・フロベール『三つの物語』(原書1877, 蓮實重彦訳 1971)

フロベールの『三つの物語』を講談社世界文学全集の蓮實重彦訳で読む。「純な心」「聖ジュリアン伝」「ヘロデア」の三篇。ともに死を扱うフロベールの表現力・描写力の生々しさに驚く。以下引用箇所は、本編を読む楽しみを削ってしまわないよう一番の核心部分は外すよう配慮したつもり。

 

「純な心」

鸚鵡は死骸のままではなかったのに、虫に喰われていた。羽根の一つはこわれてしまっていた。腹からは麻屑がこぼれていた。だが、もう目が見えなくなってしまっているフェリシテは、その額に接吻すると、頬にだいたまま離そうとしなかった。シモンおばさんがそれを取り上げ、祭壇に戻した。

 

「聖ジュリアン伝」

ジュリアンは狙いをつけては矢を放つ。矢は荒れ狂う雨のようにおちかかった。鹿は躍起になってぶつかりあい、前足で宙をけり折りかさなってゆく。角をからませた動物たちは一面に盛り上がる。そして流れるように崩れおちてゆく。
ついに鹿たちは死骸となった。砂地に横たわり、顔をよだれで汚し、内臓がはみ出している。波うっていた腹もしだいに静かになってゆく。それからすべての動きがとまった。

 

「ヘロデア」

みんな、しげしげと首をながめている。
ふりおろされる剣のするどい刃が、それてすべったものかあごを傷つけている。口もとが引きつれている。血がすでに固まって、ひげのあちらこちらにかかっている。閉じた瞼は貝殻のような蒼白さだ。そしてあたりの燭台が、光をなげかけている。

 

短めの文章が、描写対象を個別にクローズアップのように描き重ねながら、ひとつの像をつくりあげている。即物的で、過剰とも思える表現が、全体のイメージを壊すことなく主張し合い、ざわめきたっている。言語の粒立ちが消えることなく残り、小説を読むこと以外ではなかなか味わえない運動の感覚を心に与えてくれる。

 

※現時点では『三つの物語』は光文社古典新訳文庫の谷口亜沙子訳が一番手に取りやすい。大長編の多いフロベール作品の中にあっては、親しみやすい作品。


ギュスターヴ・フロベール
1821 - 1880
蓮實重彦
1936 -