読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『ことばについての対話』(原書1959, 理想社ハイデッガー選集21 手塚富雄訳 1968)

日本のドイツ文学者手塚富雄との対話を機縁にハイデッガーによって創作変奏された対話篇。手塚富雄の俤の濃い「日本の人」と「問う人」ハイデッガーの会話という形で、ことばについての実践的考察が展開される。ハイデッガーの教え子でもあった九鬼周造の「いき」の構造分析についての分かりづらさ、日本語とドイツ語で生きられる世界の違いから生まれるコミュニケーションのもどかしさ、文化間の或る隔たりの確認にはじまり、対話する二人の人間の会話の進展の遅さ、ためらい迂回しながら踏み外すことのないように摺り足ですり合わせながら思索をより合わせて進む、ことばの実践に読者は引き込まれてゆく。

問う人:
以前、わたしは、ずいぶん不器用な言い方ですが、ことばを存在の家と呼んだことがあります。人間が、その用いることばを通じて存在の要請のなかに(in Anspruch des Seins)住んでいるとするなら、われわれヨーロッパ人は、おそらく東アジアの人とはまったく別の家に住んでいるのでしょう。
(『ことばについての対話』p11)

まず、二人の人間がいるところでは、それぞれが異なる家に住まい、異なる世界を見て、その世界のものに使い使われ生きているそれぞれ異質な人間であることの確認からはじめる交流が必要で、コミュニケーションにおいては必然的に浮き上がってくる齟齬の感覚を性急に端折ってはいけないということを日本の九鬼周造関係者とドイツの九鬼周造関係者が時間をかけて確認し合う。時間をかけて確認しそれぞれが納得するという行為は、本書ではドイツ語の《Sprache》にあたる日本語は何かという問いの回答として《ことば》を提示するまでに百ページ近くかけて合流点を見極める対話者二人の緊張感のある時間の過ごし方のうちに感じ取ることができる。ごくごく繊細なところで語りあうという手本のような手合わせを傍らで聴かせてもらっているような読後感が湧いてくる。

問う人:
知識欲、また説明を欲しがる欲求、こういうものは決してわれわれを思考する問いへ導いてくれません。知識というものは、いつもそれだけですでに、それ自身が虚構したところの理性とその理性の正当性とを楯にとる自意識の、かくされた思い上がりです。知識欲という欲望は、思考する価値あるものの前に立って待ちつづけることを欲しない欲望なのです。
(『ことばについての対話』p28)

認識の組み換えがおこるような時の到来を準備する経路をみずから用意しつつ、その実現に身を震わせ驚くこと。あらかじめ用意されたものを期待するのではなく、仕上げの手間を自分の行為で付け加えていく時間の使い方が必要とされているのだと思う。

 

【付箋位置】

11, 28, 83,104,108, 138, 159, 160, 162, 165

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
手塚富雄
1903 - 1983
九鬼周造
1888 - 1941