読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガー『ヘルダーリンの詩の解明』(原書1951, 理想社ハイデッガー選集3 手塚富雄他訳 1963)

よく引用されるヘルダーリン論四篇が収録されている。

「帰郷――近親者に寄す」(1943) 訳:手塚富雄
ヘルダーリンと詩の本質」(1936) 訳:斎藤信
『あたかも、祭の日の・・・・』(1939) 訳:土田貞夫、竹内豊治
追想』(1943) 訳:土田貞夫、竹内豊治

 

ことばを存在の住まいであるといったハイデッガーヘルダーリンの詩のことばについて語る。ヘルダーリンの詩にいちばん親炙していたのだろうことが伝わる講演の記録だ。

言葉は人間が歴史的なものとして存在しうるための保証を与えているのである。言葉は人間の自由に処理しうる道具ではなく、人間存在の最高の可能性を左右するような出来事である。詩の活動領域したがつてまたその詩そのものを真実に把握するためには我々は先ず言葉のこのような本質をたしかめておかねばならぬ。
(『ヘルダーリンの詩の解明』「ヘルダーリンと詩の本質」p55)

ここからヘルダーリンの詩句「いさおしは多けれど、しかも、人間はこの地上に於ては詩人として住んでいる」の読み解きに進んでいくのだが、こちらの詩、河出の全集で探しても見当たらない。ネット上で検索すると「IN LIEBLICHER BLÄUE... 明るい青空のなかに・・・」という詩らしい。ハンス・ヴェルナー・ヘンツェという音楽家が「3つのヘルダーリン断章」という室内楽も作っているらしい。こういう時に外国語ができない自分のしょぼさを感じてしまう。日本語に住んでいるのだから仕方がないといえば仕方がない。

暗い光は明晰さを否認しないけれども、明るさが明るければ明るいほど、いよいよ断乎としてみることを拒むがゆえに、明るさの過剰を否認するのである。あまりにも熾烈な焔は単に眼を眩ますばかりでなく、とてつもない明るさはまた一切の示現するものを呑みこみ、闇よりも暗いのである。単なる明るさは、明るさのみが見ゆることを保証するかの如き外観を帯びるがゆえに、むしろ表現することを危うくするのである。詩人は明るさを和らげるその暗い光の施物を乞い求める。しかしこの緩和は明るさの光を弱めるのではない。なぜなら暗さは隠蔽するものの顕現を開き、この顕現においてそのなかに隠蔽されたものを保蔵するからである。暗さは光るもののために、光るものが輝きながら贈らねばならぬものの充溢を保蔵するのである。
(『ヘルダーリンの詩の解明』「追想」p180)

こちらはヘルダーリンの「追想」の中の詩句「しかし暗い光に充ちた/馨しい杯を/差出してほしい、」からの思索展開。覆いを取り本質に迫る詩の構造を「暗い光」から解き明かしていくというのはとても魅力的だ。講演の言葉なので、比較的直截的に語っているところも親しみが持てる。

さて、本書を以てハイデッガーのドイツの詩人についての日本語訳論文は一通り読み通したということになる。つぎはどこに向かおうか。取り上げられた詩人を読み返すのか、取りこぼされた詩人を読んでいくか、ハイデッガーに批判的な人の文章に眼を向けてみるか、ハイデッガーをさらに読みすすめるか、ハイデッガーヘルダーリンにあたる日本の詩人を探す時間を過ごすか。いずれもすぐにどうにかなるわけではないけれど、自分の日本語の住まいにすこし変化があらわれるようなものを選んでいきたい。


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヨハン・クリスティアンフリードリヒ・ヘルダーリン
1770 - 1843
手塚富雄
1903 - 1983
斎藤信
1907 - 1977
土田貞夫
1908 -1990
竹内豊治
1925 -