読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

鈴木信太郎訳で読むポール・ヴァレリーの韻文詩(筑摩書房『ヴァレリー全集1 詩集』1967)闇との合一と光との合一とそのあいだでの彷徨

鈴木信太郎訳のヴァレリーの詩は岩波文庫をはじめとしていくつかの形態で読むことが可能である。私が読んだのは岩波文庫、筑摩世界文学大系56と筑摩書房ヴァレリー全集1の3つ。そのなかでは筑摩書房ヴァレリー全集の文字組みがいちばん贅沢で、ヴァレリーの詩の高尚さに一番フィットしているような印象がある。A5判のページに16行ずつ旧字旧仮名ルビ付きで余裕をもって配置された詩句に、同一ページ下四分の一を使ってきっちり収められた各ヴァレリー註釈者の註記が理解を助けてくれている。この筑摩全集版のおかげで私はよりヴァレリーに興味を持てるようになった。もとより日本語訳による受容であるため、ヴァレリー本来の詩の味わいなどというものは語ることはできないが、日本語で生きる人間には日本語でのヴァレリーが居てくれることではじめて意味を感じるということもある。

その思ひ出は 沈む日の死を緋(ひ)に染めて、
金色(こんじき)の中に 光は跪(ひざま)づき、やがてその身を横たへて、
溶けて、葡萄の收穫を(とりいれ)を失ひ、夢に夕暮の移り行く その
夢の中に 消ゆるをも 樂しと觀ぜしむる思ひ出。
 幽玄のかかる境の 與ふるは、自己への何たる消滅ぞ。
(「ナルシス斷章」52-56行 )

こちらの引用部分であれば「幽玄」、同じ「ナルシス斷章」のなかであれば「空寂非在」「碧瑠璃」「空漠」など、日本語であるのでどうしても仏典を想起させるような熟語が出てきて、印象も東洋的世界に引きずられる。今回読んだ印象では、ヴァレリーの詩は光との合一や闇との合一に向かう傾向があり、新プラトン主義やグノーシスの神秘思想にも親和的な世界が展開されている。恍惚と眠りもしくは死に向かって、旅の連れあいでもある分裂した自分の分身とも合一し昇華消滅するというドラマ。「ナルシス斷章」では夕日の闇にも向かっている光への合一なので、光と闇の双方への消滅合一感が味わえる。そして仏典由来の熟語を使用しているため、読み取りのなかにも仏教的世界観も匂い立ってくる。「寂滅為楽」であったり「即身成仏」であったり。さすがに「仏」というのはヴァレリーの世界に合わなさそうでははるが、そもそも「即身成仏」を説いた空海にとっての「仏」は大日如来であり、その指すところは遍満する光ということであるので、「即身成仏」を「即身成光」といってもそれほど間違いではなく、光へ向けての消滅もしくは合一ということであれば、西洋的世界観や神秘観とも手を結べるような気がしている。可視光でなければ「即身成闇」であったり「即身成波」であったり。正統的なヴァレリー読み解きには不要であっても、個人的な読み取りや受容の際には手持ちのカードであれば何でも使用する。まずは好き嫌いは別にして、興味関心の強度を強めて向き合えることが何よりだと個人的には思っているためだ。鈴木信太郎訳のヴァレリーは日本的なフックもいろいろと付け加えてくれていて、それでいて装飾過多ということにもなっていないがゆえに、優れた訳業なのではないかと思う。

光よ・・・ 或は汝、死よ。さはれ迅速なるものが われを捉へよ。
(「若きパルク」253行 )

 雨のやどりの無常迅速 野水


ポール・ヴァレリー
1871 - 1945
鈴木信太郎
1895 - 1970