読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー『タイタニック沈没』(原書 1978, 野村修訳 晶文社 1983)ハバナ 1969 - ベルリン 1977

エンツェンスベルガーの第六詩集。いったんは1969年ハバナにて完成していた作品であったが、飛行機での移動時に原稿とともに荷物が紛失したため、あらためて書き直された。単に書き直されただけではなく、紛失したものを回復し復元させるための考察と戦略が加味されたため、どう読んでよいものか単純に決定できないような複雑な構造を持った作品になっている。

おおきな主題は、タイタニック号の沈没にからめて語られる社会の階層分断と上層階級の下層階級から搾取の様態であり、失われたものと失いつつあるものに対して人がとる態度である、ということは、ナンバーの振られた主要33篇を読むことで、かなりの確度をもって正しくつかめていると思わせてくれもするのだが、ナンバーを持たない代わりに表題が付された間奏曲のような16篇の詩が、読み手の統覚をかく乱させる。

たとえば第七の歌と第八の歌にはさまれた「晩餐 ヴェネチア、十六世紀」という詩篇は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と「聖アンナと聖母子」について、レオナルド・ダ・ヴィンチ本人が「わたしは」と語りはじめるスタイルの詩篇なのであるが、「最後の晩餐」に爪楊枝を持った聖ルカがいるとか、「聖アンナと聖母子」にすっぽんが描かれているとか、本当ではないことが書かれていて、どう読めばいいのか、何をいいたいのかすぐには決定できないようになっている。

第十八の歌と第十九の歌にはさまれた詩篇は「詩人が嘘をつく第二第三の理由」というもので、ここで語られている詩人の言葉を基軸にして、重層的に透し見ることがいちばん腑に落ちる読み方になるかもしれない。

「詩人が嘘をつく第二第三の理由」より

なぜなら、ことばの届くのは遅すぎるが、
あるいは早すぎる。
なぜなら、そういったわけで
語るのはいつも別人、
別の人間が語っていて、
そしてそのひとについて語られている
当のそのひとは
黙している。

言葉はつねに、幾分かは人を裏切り、幾分かは人に寄り添う。その不実さと虚構性を強調しつつ、そのなかで伝達したいものを伝える技を、実践的に定着させたものが本作なのかもしれない。


ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー
1929 - 霊朝
野村修
1930 - 1998

 

参考:

uho360.hatenablog.com