読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

近藤和敬『〈内在の哲学〉へ カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ』(青土社 2019)確率0と確率1の賭けの肯定

熱い探究心から出た過激な肯定の書物。「宇宙人であるかのごとく〈現在〉を見る異邦人」であることの追求の過程をめざましい17篇の論考を通して提示してくれている。

フーコースピノザのようにあたかも宇宙人であるかのごとく〈現在〉を見る異邦人の眼差しを獲得することが求められているのであり、そのために思いつくかぎりの手を尽くすことが求められているのだ。
(序「現在の〈外〉を思考するために」 p18 )

本当に宇宙人であれば観察や研究の対象として興味を持つだけで、地球のこと、地球に住まうことなど本気で検討する必要もなさそうな気もするが、近藤和敬は全てを賭けて異邦人となり、異邦人として地球に住まい、地球で生き抜くことを決意しているような特異性を見せている。とても興味深い研究者、哲学者だ。
いろいろと興味深いことが書かれているなかで、とくに印象深いものとして、カヴァイエス研究から出てきたところの確率0の賭けの肯定と、ドゥルーズ研究から出てきたところの確率1の賭けの肯定がある。

発生確率がゼロのものたる「あらぬ」を生み出すことで確実に現実に作用するがゆえに負けることのない確率0の賭け。第5章「アナロジーとパラロジー」で、存在を同一性に回収してしまうアナロジー的思考に抵抗する思考として挙げられているパラロジー。現実の傍らにある複製された世界とその世界での思考。

パラロジーとしての「賭け」とは、世界を複製し、複製された世界(パラログ)のほうで、現実とは異なる「あらぬ」を生み出すことで現実に作用しようとすることである。ここに、アナロジーに実質を与えつつ、それとは本性上区別されるべきパラロジーが見出されるのである。
(第5章「アナロジーとパラロジー」p120)

呼吸するのも辛いのではないかと思われる希薄な「複製された世界(パラログ)」で、現実には「あらぬ」ことを「ある」ように生み出す行為は、著者近藤和敬がテキストを書くという行為によって実践されているような印象を受ける。

確率1の賭けは、第12章の「「問題‐認識論」と「問い‐存在論」――ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ」でドゥルーズの『差異と反復』第4章「差異の理念的総合」の「命令と遊び=賭け」で論じられている「決して負けない賽子振り」への言及に見られる。近藤和敬によって確率1の賭けとは呼ばれてはいないものの「決して負けない」ところから、パラロジーの確率0の賭けとの類推で確率1の賭けという表現が読み手としての私の脳裏に浮かんできた。

実のところ、ドゥルーズが『差異と反復』の第四章で、マラルメの「賽子一擲」に言及しながら、ニーチェの「永劫回帰」の肯定について論じている時、まさに「決して負けない賽子振り」が言及されているのであり、そこではメイヤスーが反復しているように、賽子が振られるそのたびに賽子の目それ自体が彫り刻まれることがドゥルーズによっても考えられている。
(第12章の「「問題‐認識論」と「問い‐存在論」――ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ」p279)

ドゥルーズの『差異と反復』の該当箇所は財津理訳河出書房新書版では301ページの以下の箇所。

偶然が十分に肯定されれば、賭ける者はもはや負けることがない。なぜなら、[目の]組み合わせを産みだすそのつどの骰子の振りと、産みだされるそのつどの「目の」組み合わせは、本性上、不確定の点の可動的な位置とその可動的な指令に適合しているからである。

ドゥルーズの『差異と反復』の表現だとよく呑み込めなかった「決して負けない賽子振り」の様相が、「賽子が振られるそのたびに賽子の目それ自体が彫り刻まれる」という言い換えによってよりよくイメージできるようになっている。問いと存在するものの永劫回帰としての骰子一擲。

あらゆる問いは存在論的であり、諸問題のなかに「存在するもの」を配分する。存在論、それは骰子一擲であり――コスモスがそこから出てくるカオスモスである。
(財津理訳 ドゥルーズ『差異と反復』第4章「差異の理念的総合」p302 )

賭けは勝たないと意味がない。勝つための確率0の賭けと確率1の賭けに参与することが必要だということを本書『〈内在の哲学〉へ カヴァイエスドゥルーズスピノザ』は実践をもって示してくれている。

www.seidosha.co.jp

【付箋箇所】
14, 18, 25, 27, 38, 48, 59, 62, 65, 89, 101, 108, 110, 118, 120, 121, 131, 140, 142, 146, 148, 162, 172, 221, 236, 240, 242, 246, 247, 262, 274, 279, 290, 291, 320, 341, 346, 359, 360, 368, 372, 373, s377, 380, 382, 392, 394, 397, 398, 399, 401, 406, 410, 416, 423, 430, 

目次:

序 現在の〈外〉を思考するために

第一部 エピステモロジードゥルーズ
1 カヴァイエスの問題論的観点から見た科学的構造の生成――来るべきエピステモロジーのために
2 ドゥルーズの科学論――問い‐存在に向かうプラトニスムの転倒。『差異と反復』の解釈
3 エピステモロジーの伏流としてのスピノザ、あるいはプラトン――Knox Peden, Spinoza contra Phenomenology. French Rationalism from Cavaillès to Deleuzeを読む
4 ドゥルーズはシモンドンの議論をいかに理解し使用したか――ドゥルーズの忠実さと過剰さ
5 アナロジーとパラロジー
6 存在論をおりること、あるいは転倒したプラトニスムの過程的イデア論――ポスト・バディウドゥルーズ
7 メイヤスーとバディウ――真理の一義性について

第二部 カヴァ イエスドゥルーズをへてスピノザへの回帰と〈外〉の思考
8 カヴァイエス、エピステモロジースピノザ
9 カヴァイエスの哲学における「操作」概念の実在論的理解のために
10 ある理論が美しいといわれるとき、その真の理由は何でありうるか
11 カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察――フロリディの「情報実在論」とカヴァイエスフッサール批判
12 「問題‐認識論」と「問い‐存在論」――ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ

第三部 〈内在の哲学〉への道程
13 普遍的精神から、ネットワーク状のプシューケーでなく、特異的プシューケーへ――思考の脱植民地化とEndo-epistemologyへの転回のために
14 「内在の哲学」序説――知性の問題論的転回
15 哲学の外部であり同時にその内在平面でもある「脳」――「思考するのはまさに脳であり、人間ではない。なぜなら人間とはひとつの脳的結晶化にすぎないのだから」というドゥルーズガタリ『哲学とは何か』結論部の文言の読解について
16 郡司ペギオ幸夫『天然知能』の要約と注解
17 現代思想の古層と表層のダイアグラム

近藤和敬
1979 -
ジャン・カヴァイエス
1903 - 1944
ジル・ドゥルーズ
1925 - 1995
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677