読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アラン・バディウ『ベケット 果てしなき欲望』(原著 1995, 水声社 西村和泉訳 2008)

自身も小説や戯曲を書くフランス現代思想の重鎮アラン・バディウベケットへのオマージュ。豊富でこれぞというめざましいベケットの作品からの引用は、バディウの愛あふれる案内によって、輝きと光沢をます。ベケットの灰黒の暗鬱とした絶望的に危機的な状況を書き表している文章が、カッティングされた大粒のブラックダイヤモンドようにバディウによって散りばめ直されている。ベケットの作品がこれほどまでに幸福で希望のある文章としての側面も持ち合わせているのだなという、新鮮な驚きが湧き上がる。ドゥルーズベケット論が指し示しているところと方向性はそれほど違わないようではあるのだが、限界を示す厳しさの側面よりも、限界の果てにあらわれる可能性の側面に光が強くあてられていて、これがベケットかという衝撃がバディウベケットにはある。喜劇作家としてのベケットを強調しているため、本書を読んでから前期の小説を読むと、予想に反して苦しいために読みすすめることができなくなるかもしれない。作品抜粋もついていて、導入書としてはこれ以上ないくらいの仕上がりになっているのだが、よく出来過ぎているため、実際の読書体験とは異なる可能性が高い。これは、バディウベケットを読みつづけた四十年の経験の上澄みなのだ。その下には恐るべき泥濘がひそんでいる。

ベケットは務めをなし遂げた。彼は思考の果てしなき欲望という詩を作り上げたのだ。
ベケットが、彼と同じく美の要求を求めた『モロイ』におけるモランに似ていたのは疑いない。モランはあカントの美の定義をよく知っており、それを滑稽に表現する。

私は実行すべき仕事を、この雰囲気、なんと言ったらいいか、終わりなき終局性とでも言うか、そうした雰囲気のなかに移してあえて考えてみたというにすぎないからだ。

あえて考える勇気のないわれわれに代わって、ベケットはこの仕事と正面から向きあった。それは、ゆるやかだが唐突な美の実現であった。
(「美、ふたたび……」より)

ベケットの美をめぐる批評作品のなかで、ベケットからも、バディウからも、サルトルの名前が挙がっていたことも本書の特徴のひとつだろう。小説家で、戯曲家で、哲学者。似ていないほうがおかしいのかもしれないが、ベケットサルトルがつながるというのは、これもまた驚きだった。

 

目次:
ある「若き愚か者」

方法的苦行
存在と言語活動
孤独な主体
出来事とその名
他者たち

ノスタルジー
演劇
美、ふたたび……

作品抜粋

「事件」としてのベケット 近藤耕人

訳者あとがき


アラン・バディウ
1937 -
サミュエル・ベケット
1906 - 1989
近藤耕人
1933 -
西村和泉
1974 -