読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ディディエ・ダヴァン『『無門関』の出世双六 帰化した禅の聖典』(平凡社 ブックレット〈書物をひらく〉23 2020)

日本における「無門関」受容の歴史を、残された頼りない資料群を丁寧にたどり、現代にいたるまで描き出そうとしたフランス出身の在日仏教研究者ディディエ・ダヴァンのコンパクトな著作。『碧巌録』『臨済録』と異なり、中国本土ではほとんど顧みられない『無門関』が何故どのように日本人の読書階層に広まっていったかが考察されるが、残された資料の乏しさもあって、肝心なところは曖昧なままに終わってしまっている。それは著者の憶測を本文中に紛れ込ませていないということのあらわれでもあり、読み手はわりと自由に自分の空想に遊ぶことも可能だ。
日本の『無門関』受容は、鎌倉時代臨済宗の僧である無本覚心が宋から持ち帰ったのがはじまりで、当初はほとんど読まれた形跡がなく、だいぶ経った室町末期に寺格の高い五山ではない林家と呼ばれる格下の禅宗寺院のなかで弟子教化のために使用されたのち、江戸期に入り出版文化が発達し読者階層が拡がるとともに、『無門関』に商業出版の小品としての価値を見出した商人が開版することで広く受け入れられていったという。ただ、これは受容史の外観で、実際のところ何が求められての『無門関』なのかということには触れられていない。私見では『碧巌録』『臨済録』のアクの強さ比べ、『無門関』は比較的洗練されたとげとげしさの少ない評釈であることに特徴がある。ほかの禅典と比べれば温和で淡白な無門慧開のテクストと、公案四十八則の手頃なボリューム感が、日本的消費精神と適合したことが近世日本以降での『無門関』の人気になったのだろうと思う。僧の世界ではなく庶民の世界の期待要求から『無門関』が日本に深く定着していったであろうということは著者も述べているところでる。
近世の受容において臨済系の太い流れがそれとなく示されていたところにも本書のひとつの味わいがある。釈宗演―鈴木大拙―レジナルド・ブライスという流れは、20世紀の世界において日本初の禅思想が世界に広まっていく心棒のような力強さを感じさせる。本書も参考にしながら、先々追っていきたい思索者たちである。

 

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目次:
1 『無門関』、その成立と内容
2 日本への渡来、そして中世までの『無門関』
3 禅僧と書籍―抄物と密参録の世界
4 近世の『無門関』、日本社会への普及
5 近現代の『無門関』―禅籍の大物確定

ディディエ・ダヴァン
1972 -