読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

慈円『愚管抄 全現代語訳』(大隅和雄訳 講談社学術文庫 2012)

驚異的な読書人二人、松岡正剛佐藤優が混迷の時代に読むべき一冊としているのが慈円の『愚管抄』。

近頃、丸谷才一の王朝和歌に関する著作を複数冊読み、後鳥羽院と定家を中心に新古今和歌集歌人たちへの関心が高まっている状況で、歌人としての慈円と相まみえるまえに、天台座主慈円の手になる歴史書をあらためて読んでみようと思った次第。過去につまみ食いはしていたものの、今回はもう少ししっかり読むことにした。

愚管抄』は全七巻、承久の乱の直前の承久2年(1220年)頃の成立。はじめ第三巻から第七巻までが書かれ、その後に「皇帝年代記」の第一巻・第二巻が追加された。今回は主要部分としての第三巻から第七巻の通史部分を読み通してみた。

末法の世で、公卿から武士への勢力転換が起こった時代に書かれた歴史書を、21世紀の今こそ読み返されるべきものとして読書の哲人二人が挙げていた理由ははっきり覚えていないし、少し調べてみてすぐに出てくるようなものでもなかったが、実際に読んでみて現代にも応用できそうな部分というのは、なんとなくイメージはできた。

1.勢力移行期の動乱のあり様を過去の事例で振り返る。
 → 公家の没落に対応するのは何だろう? 中間階層の没落ではなく、オーソドックスな知識階級の没落だろうか。インフルエンサーという名のドグマティストの経済的背景に屈している感じのある旧知識層。新階級から御成敗式目のようなものが出てきているだろか? オープンソースソフトウェア(OSS)ライセンスなどの動きは新しい法の成立といってもいいのかもしれない

2.フェイクニュースの跳梁跋扈
 → 人の口から出る言葉の恐るべき感染力。不安を背景にした各々の信念体系への過剰なのめり込み。怨霊、悪霊、生霊、狐狸の類。讒言、噂、奇妙な風評、陰謀論。妬み、嫉み、恨み、復讐。仏教界のトップである慈円にしてからが人知を超える世界の影響を当たり前のものとして考えていた時代に、不確定な情報が飛び交い増幅してインフレを起こしている様が観察できる。その様相は現在の条項にも通じるものがある。

3.道理と因果応報
 → 諸悪莫作、衆善奉行。 悪い事をせず善い事を行え。道に逸れれば逸れたなりの果報が生まれ、道に従えば従ったなりの果報が生まれる。時代が下るにしたがって世の中は悪くなるという下降史観が優勢であった時代のなかで、時世の変化を業として必然として受け止めるところが慈円の『愚管抄』の基本姿勢である。物事が生じるにはそれなりの背景があり理由がある。起こってくるものには逆らいがたい必然性があるという視点は、事象分析においては有効でもあり、むやみな現状肯定現状追認に陥ってしまう危険性もはらんでいる。因果応報で一律裁かれてしまうと、やりきれないことも多々あるので、21世紀においては使用法には慎重であるべきではないかと思った。丸谷才一が道理について道端で見いだされるものといったような言葉を残していたと記憶しているのだが、往来でその都度見いだされるものとしての道理の柔軟性と奥行きの深さに期待したほうがよいと思った。仏法の深淵でゆるぎない道理よりも、世俗の活動に陰に陽に流れている融通無碍の道理のほうが、気づきと学びには親和的であろう。
 
現代語訳者の大隅和雄の解説によると、慈円もまたあるひとつの立場から歴史書を記したことに疑う余地はない。承久の乱を起こした後鳥羽院の討幕派とは異なる、「公武合体の政権構想」をもった新幕派からのもの言いであることを思い浮かべつつ『愚管抄』を読んでいると、21世紀の今現在どのような派閥があり、自分はどの派閥に近い思考回路をもっているのかっということ、考えてみるいいきっかけになることは間違いない。

ちなみに歴史記述は結果中心に最低限の事象を並べたとてもあっさりしたもので、歴史ロマンとかはまったく期待しない方が良い。

 

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慈円
1155 - 1225
大隅和雄
1932 -