新古今和歌集(1205)と承久の乱(1221)の中心人物、後鳥羽院の家集。1221年の隠岐配流以降の主要作「遠島百首」は本家集には含まれていないが、配流後の作品を含め約1800首の作品から後鳥羽院の歌の姿を知ることができる。帝王振りといわれる作風は、自身が統治者であり和歌の司祭であるところの世俗を超越した儀礼や社交の時空間を言祝ぎ、賦活している印象を与える。個人としての表現というよりも、和歌の主宰者でもある帝王の伝統のたたずまいが湧出している。崇徳院もまた歌才に恵まれた天皇であり上皇であったが、統治者としての印象よりも悲運の帝としての個の印象が圧倒的で、後鳥羽院の鷹揚な非個性的な個性とはまた異なっている。
同時代を生きた慈円の『愚管抄』によれば、後白河法皇が新天皇を選ぶために候補者の親王二人を呼び寄せたときに、後鳥羽天皇がニッコリと笑ったがために選ばれたということで、この人物はおそらく闇の側に関する感覚がきわめて弱いのだろうと感じさせる。光に対する感受性に秀でているがために、世俗の汚れや打算や疲弊した闇の部分にはあまり気がつかない傾向があったのではないかと考えさせる。本家集収録歌がいつごろ詠われたかを確認するために、歌ごとに催された歌合や歌会を拾い上げてみたところ、新古今和歌集編纂の院宣が出された1021年からとりあえずの完成を画した1025年の「竟宴」を経て、いつ終わるともしれぬ「切り継ぎ」をつづけていた期間、とくに後鳥羽院の20代のとどまることを知らぬ探究心は、臣下として相手にするのは相当な苦労であったろうとあらためて感じさせるものがあった。18歳年上の藤原定家がうんざりした様子を見せるのも宜なるかなと思わせる。
後鳥羽院 1180-1239の歌 | 西暦 | 年齢 |
正治二年八月御百首 | 1200 | 20 |
正治後度百首 | 1200 | 20 |
建仁元年三月内宮御百首 | 1201 | 21 |
外宮御百首 | 1201 | 21 |
建仁元年六月千五百番御歌合 | 1201 | 21 |
建保四年二月御百首 | 1216 | 36 |
詠五百首和歌 | 1221 隠岐配流以後 |
41以後 |
建仁元年二月老若五十首御歌合 | 1201 | 21 |
元久元年十二月八幡三十首御会 | 1204 | 24 |
同月賀茂上社三十首御会 | 1204 | 24 |
賀茂下社三十首御会 | 1204 | 24 |
同月住吉三十首御会 | 1204 | 24 |
元久二年三月日吉三十首御会 | 1205 | 25 |
承元二年二月内宮三十首御歌 | 1208 | 28 |
同外宮三十首御会 | 1208 | 28 |
承元元年十一月最勝四天王院御障子 | 1207 | 27 |
建暦二年十二月二十首御会 | 1212 | 32 |
正治二年七月北面御歌合 | 1200 | 20 |
同七月十八日御歌合 | 1200 | 20 |
同八月一日新宮歌合 | 1200 | 20 |
同九月御歌合 | 1200 | 20 |
同九月尽日御歌合 | 1200 | 20 |
同十月一日御歌合 | 1200 | 20 |
同日歌合 | 1200 | 20 |
同十月十一日新宮歌合 | 1200 | 20 |
同十一月七日新宮歌合 | 1200 | 20 |
同十一月八日影供歌合 | 1200 | 20 |
同十一月二十九日御幸 住吉社三首 | 1200 | 20 |
同十二月歌合 | 1200 | 20 |
建仁元年正月十八日影供御歌合 | 1201 | 21 |
同三月十八日影供御歌合 | 1201 | 21 |
同三月尽新宮撰歌合 | 1201 | 21 |
同四月二十六日御会 鳥羽殿初度 | 1201 | 21 |
同四月三十日影供歌合 | 1201 | 21 |
同日当座御会 | 1201 | 21 |
同五月城南寺歌合 | 1201 | 21 |
同七月二十七日当座御会 和歌所 | 1201 | 21 |
同八月三日影供御歌合 和歌所初度 | 1201 | 21 |
同月十五夜撰歌合 | 1201 | 21 |
同日当座御会 和歌九品 | 1201 | 21 |
同十二月影供歌合 隠名 | 1201 | 21 |
同十二月二十八日 石清水社歌合 | 1201 | 21 |
建仁二年正月十三日御会 和歌所 | 1202 | 22 |
同二月十日影供御歌合 | 1202 | 22 |
同三月二十二日三体和歌 | 1202 | 22 |
同三月同日 当座御会 | 1202 | 22 |
同五月影供御歌合 | 1202 | 22 |
同六月水無瀬釣殿御歌合 | 1202 | 22 |
同八月十五日夜 | 1202 | 22 |
同八月二十日影供歌合 | 1202 | 22 |
同九月二十九日恋十五首撰歌合 | 1202 | 22 |
同九月十三夜御会 | 1202 | 22 |
又同夜当座御会 | 1202 | 22 |
建仁三年正月十五日御会 高陽院殿 | 1203 | 23 |
同六月十六日影供歌合 | 1203 | 23 |
同六月十六日影供之次 夏月二首 | 1203 | 23 |
同七月五日八幡宮撰歌合 | 1203 | 23 |
同八月十五夜和歌所当座五首 | 1203 | 23 |
同時屏風御歌 | 1203 | 23 |
同月日六首 和歌所 | 1203 | 23 |
元久元年七月十六日御会 | 1204 | 24 |
同八月十五日夜御会 五辻殿初度 | 1204 | 24 |
同夜当座御会 | 1204 | 24 |
同十月石清水御歌合 | 1204 | 24 |
同十月日当座歌合 | 1204 | 24 |
同十一月十三日春日社御歌合 | 1204 | 24 |
元久二年三月二十六日 新古今集竟宴和歌 | 1205 | 25 |
同七月十八日北野御歌合 | 1205 | 25 |
建永元年正月十一日御会 高陽院 | 1206 | 26 |
同七月二十五日御歌合 卿相侍臣歌合 | 1206 | 26 |
同日当座御歌合 | 1206 | 26 |
同月中後日当座御歌合 | 1206 | 26 |
同月中当座御歌合 | 1206 | 26 |
同八月五日 鳥羽院新御所初 | 1206 | 26 |
同八月御歌合 | 1206 | 26 |
承元元年正月二十二日御会 和歌所 | 1207 | 27 |
同三月七日鴨社歌合 | 1207 | 27 |
同日賀茂社歌合 | 1207 | 27 |
承元二年三月住吉御歌合 | 1208 | 28 |
同閏四月四日 | 1208 | 28 |
承元四年八月十一日 何歌当座 | 1210 | 30 |
同九月粟田宮御歌合 | 1210 | 30 |
建暦二年二月二十五日 | 1212 | 32 |
建暦三年七月十七日松尾社歌合 | 1213 | 33 |
建保元年十二月十四日御会 水無瀬殿 | 1213 | 33 |
建保二年二月御会 | 1214 | 34 |
同八月撰歌合 | 1214 | 34 |
同九月三日当座二首 | 1214 | 34 |
同九月十四日 | 1214 | 34 |
建保三年六月二日御歌合 | 1215 | 35 |
建保四年八月二十五日五首 御熊野詣路次当座和歌 湯浅宿 |
1216 | 36 |
同十月十一日庚申嵯峨殿 | 1216 | 36 |
建保五年四月十四日庚申御会 | 1217 | 37 |
建保七年三月八日御会 水無瀬殿 | 1219 | 39 |
撰歌合 嘉禄二年四月二十一日 | 1226 | 46 |
世中の常なき色を知れとてや露の宿りに月もすむらん
隠岐での詠。無常の世にあっても後鳥羽院の脳裏には慈悲の恵みの光が息づいているようなのだ。
【付箋歌】
100, 239, 487, 663, 711, 736, 802, 822, 827, 842, 918, 969, 1079, 1124, 1238, 1370, 1388, 1406, 1431, 1472, 1473, 1522, 1664, 1698, 1725, 1733, 1762, 1764, 1767
後鳥羽院
1180-1239