読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

大岡信『うたげと孤心』(集英社 1978, 岩波文庫 2017)

岩波文庫では191ページ、「『梁塵秘抄』という平安末期の歌謡集があって」とはじまる後半三章の後白河院伝統芸能としての今様への関わりを論じている部分は、前半の和歌に関する論考との繋がりに緊密さが欠け、読者としては腰折れ歌のような印象を持ってしまうのも確かなのだが、王朝サロンの宴で供された言葉と声による芸の世界に、必然的に生じてしまう歌い手の優劣と、派閥や個人間での権力争いと、そこに顔を出す歌い手各自の公的な側面と私的な側面を、社交のなかで己の芸を披露するほかない代表的な歌人たちの姿から繰り返し描き出そうとしている作者大岡信の思いは一貫している。芸道を突き詰めながら己の生を生きる時、人は宴のなかにあって、厳しい孤独の心、孤心に向き合わざるを得ない。その孤心のなかの「うめき」にも近いものが、天性の資質と各人の精進の度合いによって、独自の光を集団の中で放つ。相互に作者であり演者であり批評家でもある人びとのなかで、抜きんでて満足を得ようとする心が強くなれば、どうしも孤独は強まり、それが書くという行為に結びつく。そういったことが書かれている古典評論であった。すこし近代的解釈に過ぎるような気もするのだが、大岡信自身が戦後の現代詩人であり、優れたアンソロジストであり、批評家であったためか、研究者とは異なる視点と熱量はたっぷり感じるとることができたので、読み甲斐はあった。

現実には、「合す」ための場のまっただ中で、いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行った人間だけが、瞠目すべき作品をつくった。しかも、不思議なことに、「孤心」だけにとじこもってゆくと、作品はやはり色褪せた。「合す」意志と「孤心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の耀きを発した。(「帝王と遊君」より)

戦うべき相手がいて、孤独に立ち向かう自分がいて、そこで手合わせがはじまり、なにものかが生み落とされる。『うたげと孤心』。大岡信の代表的な評論作品。

www.iwanami.co.jp

【付箋箇所(岩波文庫)】
10, 13, 22, 51, 56, 57, 75, 89, 93, 97, 126, 128, 143, 190, 198, 250, 262, 272, 311, 313, 321, 334, 348, 361, 367, 381, 384, 386, 388, 394, 407

目次:

序にかえて――「うたげと孤心」まで
歌と物語と批評
贈答と機智と奇想
公子と浮かれ女
帝王と遊君
今様狂いと古典主義
狂言綺語と信仰
あとがき
この本が私を書いていた――同時代ライブラリー版に寄せて

《解説》「うたげと孤心」を支えるもの(三浦雅士

大岡信
1931 - 2017
三浦雅士
1946 -