久安百首は崇徳院が二度目に召した百首歌で、第六勅撰集『詞花和歌集』(1151)の資料として召されたと考えられている。ただ詠進歌が出揃ったのは久安6年(1150)であり、『詞花和歌集』の選者藤原顕輔にとっては検討期間が短くまた『詞花和歌集』の選歌の方針として当代歌人については原則一人一首しか採らないこともあって、久安百首からは5首が採られるのみに終わった。崇徳院は『詩歌和歌集』の出来に不満を持っていたこともあって、藤原俊成(久安百首では顕広)に久安百首の部類をするよう申しつけ、意に適う詞華集をつくりあげることに執着していた。しかしながら、保元の乱の政争に敗れ、讃岐に配流、完成を見ることなく崇徳院は崩御する。崇徳院の魂鎮めの意味合いもあるという第七勅撰集『千載和歌集』(1188)は、藤原俊成が撰進し、久安百首から126首が採られ、ようやく和歌集の最高の舞台であらためて陽の目を見ることとなった。
出詠歌人14名、全1404歌、全10巻からなる和歌集。
本書は本歌に現代語訳としての通釈と語句解説の注釈、そして必要に応じて典拠となる本歌・証歌を挙げる4段構成となっている。見開き2ページで5歌程度の比較的あっさりした簡潔な注釈本で、素人にとっても読みやすいつくりとなっている。
出詠歌人は崇徳院、藤原公能、藤原教長、藤原顕輔、藤原季通、藤原隆季、藤原親隆、藤原実清、藤原顕広(俊成)、藤原清輔、待賢門院堀河、上西門院兵衛、待賢門院安芸、故左大臣家小大進。和歌の教養があったといわれる崇徳院よりも、藤原顕広(俊成)の御子左家よりも、藤原顕輔、藤原清輔親子の六条藤家、特に清輔の作品が目に付く詞華集。全体としては、心情吐露の重い歌も、超絶技巧の煌きや深淵を見せる歌も目立つことなく、先行作品を良く咀嚼して、滞りなく詠いあげるすっきりした印象の作品が多く、気品があるように感じられる。和歌の伝統の流れに身を浸して、しっとりと読むことができる和歌集。
【清輔5首】
川社 波の注連(しめ)結ふ 水の面は 月の光も 清く見えけり
思ひやる 心も涼し 彦星の 妻待つ宵の 天の川風
思ふ事 ありとなけれど 秋の夜は 朝戸あけてぞ 眺められける
かくばかり 思ふ心は 暇なきを いづくよりもる 涙なるらん
旅づとに もたるかれひの ほろほろと 涙ぞおつる 都思へば
勅撰集『詞花和歌集』で選者である父顕輔と対立したがために、後々まで疎まれ昇進もままらなかったり、二条天皇下で『続詞花和歌集』(1165)を編むも、奏覧前に天皇が崩御し、勅撰和歌集にならなかったといった後年の不運もあったりして、和歌が示す言語感覚の繊細さともども、人間藤原清輔に対する興味がふつふつと湧いてきた。
【付箋歌】
76, 86, 99, 110, 124, 137, 165, 180, 202, 213, 305, 350, 352, 364, 380, 387, 399, 422, 434, 435, 439, 450, 474, 491, 501, 562, 597, 612, 627, 629, 651, 663, 664, 784, 960, 1003, 1009, 1038, 1045, 1076, 1121, 190, 1239, 1260, 1266, 1337, 1357
木船重昭
1927 -