読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

藤岡忠美『紀貫之』(講談社学術文庫 2005, 集英社 王朝の歌人シリーズ 1985)

紀貫之はいわずと知れた『古今和歌集』の編者で『土佐日記』の作者。かな文学創生期の大人物であるが、公的な役職地位は低く(といっても貴族階級に属し、支配階級との交流もあるのだが)、伝記的な資料はかなり限られている。人生の再現するのに確実な記録はそろってはいないが、限られた資料と残された紀貫之の作品、そして先行する紀貫之研究書をもとに、藤岡忠美の史実に沿った想像を交えながら、日本の文芸の世界を飛躍的に発展させた紀貫之の歩みを鮮やかに説得力をもって描き出している。とりわけ古今和歌集成立前後と土佐日記成立前後の詩歌管絃を軸にした幾多の人々との交流の姿はきめ細やかに描かれていて、作品の成立背景に対しても理解が深まり、今後の古典鑑賞に明るい光を射しつづけてくれるであろうという期待の感覚を生んでくれた。菅原道真(845-903)の提言によって遣唐使が廃止され国風文化の醸成が盛んになった時代の人物交流図が、紀貫之の伝記散文のなかから自ずと感覚され記憶に残るよう構成されているところが、本書の有効射程の範囲を大きく広げている。

光孝天皇宇多天皇醍醐天皇の代替わりにおいて菅原道真藤原時平の勢力争いが起こり、仕掛けた藤原時平側に時流は移って、文芸面においえも、それまでの漢文主体の文芸がはっきりとやまとことばの側に比重を移すことになる。道真編纂で勅撰集とはならずに終わった『新撰万葉集』(上巻:893年)は万葉仮名表記の和歌に七言絶句の漢詩を配したつくりで、かな文字で成立した『古今和歌集』(905年)の改革からは時代の違いを感じさせる。『古今和歌首』以前は勅撰集といえば漢詩集であったのだから、道真の『新撰万葉集』も相当新しいこころみではあったはずだが、かな文字による音の解釈の重層化を前提とした歌作に転換していくような衝撃はなかったであろう。その意味では、宇多天皇(897年上位し上皇、899年出家し法皇)と菅原道真が主導していた時代から新時代を用意した藤原時平の強引とも言える改革は、確実に大きな転回点となった。

藤原基経藤原時平藤原忠平藤原兼輔藤原定国藤原定方藤原師輔といった藤原氏の権勢がつづく中のエアポケット的な時期に、宇多天皇菅原道真の非主流のカップリングが台頭した反動として、菅原道真排斥が起こったのは運命的で、日本の和歌の歴史から見てみると必ずしもすべてが悲劇的に進行していったものではないということも分かる。遠く『新古今和歌集』の時代になって後鳥羽院菅原道真の運命に共感していくようになるのも、不毛とも豊穣とも異なる時代の必然の実りのようなものを感じて、圧倒される。

古今和歌集』編纂は、宇多法皇の意向も引き継いだ醍醐天皇の勅命と自身優れた歌人でもある藤原時平の推進もあって、ゆるぎなく進展していった。ただ当時和歌の扱いはまだ低く、公的な事象よりも私的日常を生きる文芸であったため、編纂者としては藤原氏に連なる家系の者であっても身分的には低い者がとくに編纂者として選ばれたという可能性に言及されている。そこに合致するのが紀友則であり紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑ということになったのであろう。

時平‐友則の関係から貫之が召喚され、歌作能力と編集能力と実践力にもに抜きんでた貫之が、実質的な主筆編集者となって成立したのが『古今和歌集』であろう。ただ、その体制を成り立たせるためのより大きな体制というものはあって、天皇家と藤原家からの尽きることのない屏風歌の要請、歌合への詠進要請に、柔軟かつ先鋭に応答することのできた貫之が中心となっていく必然性はあった。宴の趣旨や屏風絵の画題にあわせて、虚構の世界を組み立てて現実以上の感興をもたらす創作者としての手腕が、質量ともに突出していたのであろう。親友ともいえる凡河内躬恒も和歌の才能の点では優劣つけがたいところはあっても、創作における貪欲さと活力では貫之の水準には達していない。注文仕事の屏風歌に加え、現代にも通じる『土佐日記』の諧謔と哀感の混在したフィクション構築の能力は、天来のものといってしまいたくなるような、憧れの高水準にある。

現実の素材から、現実以上に情動に働きかける虚構の世界を創り上げることに、紀貫之はもっとも自覚的で、もっとも適した能力を持ち、要求にも適切に応える技量を磨きつづけた人物であったのあろう。それを成り立たせる貴族の宴の世界は、ほかの多くのものを犠牲に成り立っていたとはいえ、その限られた世界のなかで、永遠に近く且つ軽さを帯びたものが生まれ出たことは、いまでも記憶し考察するに値する。

 

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【付箋箇所】
16, 24, 35, 74, 84, 89, 127, 143, 155, 161, 163, 212, 268, 276, 290, 294, 301

 

目次:
第1章 紀氏に生まれて
第2章 歌人誕生
第3章 延喜の国政
第4章 『古今和歌集』成る
第5章 「小世界」の周辺
第6章 『土佐日記』前後

 

紀貫之
871? - 946?
藤岡忠美
1926 -