読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

小島憲之編『王朝漢詩選』(岩波文庫 1987) かな文字発生前後の漢詩

万葉集』(783年頃)から『古今和歌集』(905年)のあいだは和歌よりも漢詩が栄えていた。嵯峨天皇淳和天皇のもとで『凌雲集』(814年)、『文華秀麗集』(818年)『経国集』(827年)という勅撰漢詩集が編まれ、その後も宮廷文化は上級官吏たちによる漢詩文が支えていた。基本的に男性ばかりで営まれた文化で、当時仮名文字がまだ成立普及していなかったことも漢詩中心文化であった大きな要因と考えられる。

古今和歌集』以後に勅撰の漢詩集が作られることはなかったが、漢詩はずっと作られ続けてきた。本書は七世紀から十二世紀に作られた詩三千余首から、編者が一七〇首を選び、訓読文と現代語訳と注釈をつけたアンソロジーで、現代ではなかなかまとめて読むことの少なくなった平安期の漢詩にアクセスできる。

漢詩と和歌では使用する文字も文体も取り扱える情緒や事物も異なってくる。『古今和歌集』以降の和歌でも、漢詩からの転用翻案は多くみられるものの、やはり情趣は大きく異なる。本書には百人一首にも採られるような優れた和歌詠みでもある人物が複数収められているので、和歌作品と比較しながら読んでみたりするとより面白いものとなると思う。菅原道真を筆頭に、小野篁大江匡房百人一首には採られていないが三十六歌仙の源順などがいる。

小野篁(802~852)の百人一首採用歌は「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟」で、古今和歌集には当然かな文字で収録されているが、この時実際にかな文字で詠い記されたのかどうかということにも興味が湧く。いろは歌の作者ともいわれたこともある一世代前の空海(774-835)にかな文字の著作はなく、二世代近く後の菅原道真(845-903)は遣唐使廃止を提言し詠まれた和歌も小野篁の和歌と比べてより和風が強くなっている。和歌の低調期をささえた在原業平(825-880)は逆に漢詩文の才能がなく、歌風もどう考えてもかな文字にしか合わないものなので、かなの成立と普及は九世紀前半くらいの出来事なのだろうと勝手な想像をしたりもした。

野村火 菅原道真

非燈非燭又非蛍
驚見荒村一小星
問得家翁沈病困
夜深松節照柴扃

油の火でもなく蝋燭の火でもない、といって蛍のほのかな火でもない、
荒れた村にひとかけらの小さい星くずを見つけてびっくりする。
あれは何の火かと尋ねると、重い病気に苦しんでいる老人の家では
夜更けに松脂の火でわびしい柴の戸を照らすのだということがわかった次第。
(訳:小島憲之

讃岐守として地方行政を行なった経験から、土地の貧しい人々を漢詩で詠うことの多かった菅原道真の作品。和歌ではとても詠えない内容である。やまとことばの長歌山上憶良貧窮問答歌はあるが、漢詩のほうが鮮明で客観的でもあるため現実感に富んでいる。

流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底

こちらは大宰権帥に左遷されたのちの和歌。和歌はやはり内面の景色を詠いあげるのに適した形式であることが漢詩と比べるとよくわかってくる。庶民の貧しさや苦しみを取り上げることが容易にできる形式ではないのだ。

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【付箋箇所】
55, 111, 132, 162, 165, 190, 242, 247, 277, 288, 295, 304, 353, 413, 419, 422, 431, 448, 453, 460, 469

小島憲之
1913 - 1998