読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

コレクション日本歌人選024 青木太朗『忠岑と躬恒』(笠間書院 2012)

古今和歌集編者のうち二人、壬生忠岑凡河内躬恒のアンソロジー凡河内躬恒紀貫之との交流も深く屏風歌の需要が多くあった時代の専門歌人ともいえる人物であるのに対し、壬生忠岑紀友則とともに少し上の世代で菅原道真編纂の『新撰万葉集』の主要歌人でもあり、万葉集漢詩により影響のある時代の歌合中心の活動をしていた歌人である。

ともに家集を持つ歌人で、忠岑集185首、躬恒集482首と、後世に伝わる歌の数では屏風歌の注文を受けて歌作したであろう躬恒のほうが圧倒的に多い。忠岑の同世代と考えられる紀友則の家集72首に対し、いとこの紀貫之の家集が全九巻889首であるということも、時代の転換期に境を接していた二つの世代の違いを感じさせる。歌数に関しては、実際に詠まれた歌の数の差もあれば、選歌時点での散逸具合の相違も大きいのではないかと想像される。

本書で取りあげられる歌の割合は忠岑20首に対して躬恒30首。個人的には本シリーズで紀友則も取り上げて欲しいので、躬恒24首、忠岑13首、友則13首くらいの配分が良かったが、まあ、ないものねだりをしてもはじまらない。

紀友則ではなく壬生忠岑が選択されたのは家集に収められた歌の数と歌の傾向の独自性や評者の好みにあると思う。どちらかといえば男性的で物語性が強く多義性を孕んだ忠岑の歌には、社交的な遊びの感覚が色濃い。凡河内躬恒の歌とあわせてみたときに世代の差と気質の差がより対照的に見えてくるという利点がある。代表的な歌が選ばれていくなかで、二人の歌人の歌の傾向がよりよく浮き出るには、凡河内躬恒に対して紀友則より壬生忠岑のほうがふさわしい。太さと細さ、切れと艶、明瞭さとかそけさなど、歌の傾向がだいぶ異なっていることがわかる。そして、31音に込めた韻律の感覚の違い、忠岑の自由にばらけた歯切れの良さと、躬恒の同音や類音を重ねて流麗かつ芳醇な印象を立ち上げる技術の違いがよく出ている。

壬生忠岑
ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらん
命にもまさりて惜しくあるものは見果てぬ夢のさむるなりけり
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし

凡河内躬恒
心あてに折らばや折らん初霜の置きまどはせる白菊の花 (お、は、ら)
立ちとまり見てを渡らんもみぢ葉は雨とふるとも水はまさらじ (ま行、は行、ら行)
頼めつつ逢はで年ふるいつはりに懲りぬ心を人は知らなん (は、つ、こ、ら行)

たとえば紀友則の歌を3首並べてみた場合には、友則の個性の薄さのため、上記二者とのコントラストはそれほど強調されないかもしれない。

紀友則
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
宵の間もはかなく見ゆる夏虫にまどひまされる恋もするかな
うきながら消えせぬ泡となりななむ永かれとだに頼まれぬ身は

淡く、瑞々しく、端正でいながらたおやかで美しい紀友則の歌は、はかなく、かげりをもつがゆえに、目立たぬ存在で終わってしまう傾向にあるのかもしれえない。私は何ともいえず好きな歌人ではあるのだけれど………

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青木太朗
1967 -