読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宮下規久朗+佐藤優『美術は宗教を超えるのか』(PHP研究所 2021)と『ヴォルス 路上から宇宙へ』(左右社 2017)

「美術は宗教を超えるのか」と問うていて、対談を行なう両者の立場からは、超えられないという道筋はあらかじめ消えている。であるから、どんな場合に美術は宗教を超えるのかという点について注目して読みすすめることになる。

西欧美術・キリスト教の下での造形作品において、偶像とイコン(聖画)の峻別をベースに、神を観想するための通路としてのイコンに連なる絵画作品に焦点が合わされる。

病者を癒すための図像としてのマンディリオンと、ゴルゴダの丘を登った時の刻印としてのスダリウム。

いずれも本来触知できない神に通じる回路としての聖なる役目を担った図像であるが、各画家によって再創造されるごとに神との回路は複層化され、超越神の像も複雑化し、作家ごとに神のとその創造世界についての表現のニュアンスが分裂してくる。

本書においては、平面と立体、絵画と彫刻の差異をめぐってミケランジェロダ・ヴィンチの対立がクローズアップされるものの、神に通ずるイコンとしての役割についての差は、いまひとつ強調されず、聖なるものへの通路をひらく美術作品の共通した特権性がピックアップされる。

聖なるものへのひとつの通路としての美術作品ということに関しては、おそらくは誰もあえて否定しなくてもよい見解であろう。

そのいっぽう、聖なるものに通じている可能性の強いひとつの美術作品が、一鑑賞者にとって、知的に理解困難なケースも、またしばしば生じる。

宮下規久朗と佐藤優の対談においては、キリスト教的世界観に収まる事例に終始している感があるけれども、聖なるものとの回路を意識的に切断しようとしている現代美術の作家たち(日本で言うなら会田誠山口晃)のことをどう思っているのか、気になった。

海外の作家でいっても、ここ数日間作品集を見返しているプロテスタントアンフォルメルの画家、ヴォルスの作品が、まったく神に通じているようには見えず、何なのだろうかと思案に暮れている。

どことなくパウル・クレーに似通った印象でありながら、描かれた対象の構造が、基礎と安定を欠いていながら、分裂しない危ういバランスのなかで不遜に自己主張しているところ、主張があるようでいながら主張がない、一時の奇蹟的なバランスが定着されていて、かつ自己主張が強くない一瞬が目のまえに提示される

神にいたるだいぶ手前で、ひとりの人を根底から揺るがすビジョン。

納まりのよくない、線の絡みあいと、色彩の戯れ。

なにものにも貢献しないような図像の前に立ち止まっていると、宗教も美術も、ハラハラとしなければならない対象となって再浮上してくるような感じとなる。

 

www.php.co.jp

ja.wikipedia.org

kawamura-museum.dic.co.jp

 

ヴォルス(アルフレート・オットー・ヴォルフガング・シュルツェ)
1913 - 1951
宮下規久朗
1963 -
佐藤優
1960 -

 

@よっぱらい