ひらがな主体の『土左日記』が当時書かれた状態の姿に限りなく忠実に現代語に移した画期的な翻訳。少なく見積もっても傑作といえるだろう。
おとこがかんじをもちいてしるすのをつねとする日記というものを、わたしはいま、あえておんなのもじで、つまりかながきでしるしてみたい。
もとのかたちに似せながら、作品の解釈と作品の背景を組み込んで、『土左日記』というフィクションの深みと、フィクションを構築するうえであらわれる表現のゆらぎまで見事に浮かび上がらせ伝えている。翻訳であり堀江敏幸の創作でもある重層的な作品となって新たな息を吹き込まれている。古今和歌集をつくるうえでの歌壇の交流、主従関係、官吏としての地位をめぐる動きなど先行資料をもとに、かなり忠実に描き出しているところも、作品としての完成度の高さに貢献している。紀貫之の先行評伝を一冊読んでから堀江敏幸訳の『土左日記』を読むとよりよく味わえそうな気もするが、準備なく読んだとしてもいままでの『土佐日記』とは違った輝きを見られることになると思う。