読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『シレジウス瞑想詩集』(原著 1657,1675, 訳:植田重雄+加藤智見 岩波文庫 1992 全二冊)

ドイツ・バロック期の神秘主義的宗教詩人アンゲルス・シレジウス(1624-1677)。もともと医学を学んでいたが、オランダのライデン大学で学んでいた時期にヤコブベーメの思想に出会ったことがきっかけで、エックハルトやタウラーなどのドイツ神秘思想に関心を抱き、果てはローマカトリックに改宗、職を棄て世俗から離れて執筆や論争に明け暮れることになる。代表的作品となるのが本書『瞑想詩集』で、副題は「神的な瞑想へ導くための精神豊かな感性と脚韻詩」とつけられている。

1700篇あまりからなる詩集のほとんどは二行の押韻詩で、ハイデガーマルティン・ブーバーノヴァーリスルドルフ・シュタイナーなど錚々たる面々に影響を与え愛好されてきた。

日本語訳は押韻まで写すことをはじめから断念しており、詩というよりも警句アフォリズムといったほうがしっくりくる。詩を期待して読むと当てが外れた感じを受けるだろう。おそらく上記の影響を受けたドイツの偉人たちは、ドイツ語の詩としての味わいを含めて称賛し愛好していたのであろう。日本語訳では比較的長い作品である第6章の1から12までの作品に詩的なものを感じられる程度で、あとは内容中心に見ていったほうが無難である。

『瞑想詩集』は神学的内容が作品を構成しているのではあるが、神学者の厳密性はあまりなく、矛盾を孕んだ文学作品である。これ
はシレジウスが彼に大きな影響を与えたヤコブベーメとともに正式な神学者ではなく、市井の人間が神秘的体験をきっかけに創りあげた世界像の表明であり、世界への褒め歌であり、世俗への弾劾であるがためである。そしてこの傾向は、世界の創造を思想の直接対象としないシレジウスにより顕著に表れている。そのためドイツ神秘主義の思想的側面への緩やかな誘惑者とはなっても、その核心への案内役となるまでにはいたらない。あまり気負って読まないでも済むところが逆に魅力であろうか。

Gelassenheitはハイデガーにも影響を与えたベーメの主要概念の一つで日本語では一般的に「放下」と訳されているが『瞑想詩集』では「放念」と訳されている。「Gelassenheit 神秘思想の用語。一なる神と合一するために魂が被造物から離脱し、孤独に沈潜し、無に立つことをいう」というのが訳注である。我欲を断ち、我執を解き放ち、何も望まない神と合一し、安らぎを得る。もし合一できていないのなら、瞑想が足りないに違いない。シレジウスの詩の大半はこの「放念 Gelassenheit」への導きである。時に一なる神が人格神のような姿で現れることもあるが、そこは受け流す部分であろう。

 

第1章 76
神は何も得ようとしないから永遠の安らぎである。同様にあなたが何も求めなくなれば、それだけあなたも神と等しくなる。

 

第5章 173
人よ、神は何も求めない。もし神の中に願望があったなら、あれこれとためらうことになってしまう。そのようなことは神にはふさわしくないことだ。

 

「何も求めない」を求めようとはしている。それさえなくなってしまうと、なにも書き残されないまま、否定なきニヒリズムになるか、本当の解脱の境位に立つことになるのだろう。

 

なお、シレジウスの同時代人としてスピノザ(1632-1677)がいる。8歳年下で同じ1677年に亡くなっている。一なる神からの思考の類似と違いを追ってみるのもいいかもしれない。

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【付箋箇所(作品番号)】
第1章
8, 22, 24, 39, 49, 76, 88, 127, 148, 169, 186, 200, 205, 226, 266, 281, 295, 
第2章
15, 92, 117, 141, 144, 167, 180, 218
第3章
188, 206, 212, 221
第4章
2, 117, 173, 187, 207, 
第5章
31, 56, 70, 85, 173, 194, 207, 214, 246, 283, 341, 
第6章
4, 20, 44, 62, 82, 108, 134, 171, 176, 230, 251
解説
272, 274, 276

シレジウス
1624 - 1677