読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ヒド・フックストラ編著 嘉門安雄監訳『画集レンブラント聖書  旧約篇』(原著 1982, 学習研究社 1984)『画集レンブラント聖書  新約篇』(原著 1980, 学習研究社 1982)

聖書に題材をとったレンブラントの作品を見ていると、対象となっている聖書の記述を確認したくなる気持ちにさせられる場合が多くあるのではないだろうか? レンブラントの聖書の場面は、いわゆる聖画一般のイメージとは異なり、描かれている人物たちは貧しく卑俗で到底聖性があるようには見えない。光と闇の画家レンブラントならではの聖化の表現は一貫してあるものの、人物造形としてはイエスやマリアやヨセフは貧民層の表現を超えていない。レンブラントが描くところのイエスはいかがわしさと隣り合わせの呪術者兼革命家(最近の言葉でいえばインフルエンサー)と変わりないし、マリアは母性的な田舎娘であり、時を経ては老婆にすぎず、イエスの父ヨセフは弟子もいないような貧乏な大工職人でしかない。一般的に流布している聖なる家族のイメージや、イエスの奇蹟を含めた言行は、地上の卑俗な一人物のものとして描ききられている。その卑俗さ加減が聖書の記述とどの程度の整合性があるかというところが気になり、聖書の該当箇所を読んでみたりもするのだが、厳密な描写は聖書にはなく、レンブラントの表現もあながち間違ってはいないというか、神の子である確信を持てないような卑小な存在としてのイエスに対する同時代人としての感覚としてはむしろ正しいものではないかという思いが湧いてくる。正しいのかもしれないが、妙に人を苛立たせ、モヤモヤ感を残した状態で勝手に次の次元へと進んでしまう人。聖人というよりは異質で異能な人、常に一緒にいるのは困難だけれど煩くて且つ無視しがたい隣人。キリスト教信者でなくても、まあなんて人なのだろうという俗なる関心を持たせてくれるのがレンブラントの聖書の存在価値であると思う。

幼児イエスに乳を与える聖母マリア、裸足で歩くヨセフ、神殿から商人を追い払う激高の人イエス、ラザロを復活させる妖しいイエスとゾンビのようなラザロ、十字架の受難での痛々しいイエス、復活した後で帽子をかぶり鋤を持った農民風のイエス。聖人として崇められるよりも、より近くにいる存在として迫って来て、考え感じることをいつの時代になっても要請する人々の姿がそこにある。

新約聖書のエピソードと同様に、旧約の人々も世俗的で日常と地続きの感覚のうちに見事に再構成されて作品の中で息づき、見る者の心を動かしてくる。

制作年代や制作手法の違いから表現の方向性に違いは出てくるものの、レンブラントならではの人間観察と近代レアリスム的な表現手法による独特の質量感には共通するものがあるのであろう。その作品が、今なお精神世界の尽きせぬ源泉となっている新旧聖書の文言とともに提示されていることは、日本に住む異教の者たちにとって興味深くも大変貴重な学びの場となっている。宗教的関心や学問的関心からでなく、芸術的なものについての好奇心から異世界であり異文化であるものに触れられるのは喜ばしいことではないだろうか。


レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669

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