上巻は宇野三段階論のうち原理論と段階論が展開される。第一部「資本主義の発達と構造」が段階論+原理論、第二部「経済学説の発展」で原理論の基本概念を補充している。
第一部「資本主義の発達と構造」
訓練されて無産者=近代賃金労働者ができる。
自己の労働力を売る以外には売るべきものをもたないという無産者ができただけでは、近代賃金労働者として十分ではない。これらの無産者は新しい生産様式に順応した生活の仕方、すなわち自分の労働力を売ることによって生活することが人間として当然の生き方であり、それが自然な制度であると思うまでに訓練されなければならなかった。(第一部第二章の一「エンクロージャ・ムーブメント(囲い込み運動)」p63)
生産ができなくなったとき、賃金が得られなくなったときのことを考えてしまうと自転車操業的な家庭経済は、こわい。共同体も家族も解体してゆくなかで、個々人がアトムとして存在している様相が強くなってきている現在、労働力ではなくなったときの不安がとても大きい。
奴隷でさえ、一日の生活資料の生産に一日を要しないからこそ奴隷ともなったのであって、いかなる社会においても多少の進歩・発達の見られるかぎり、人間の一日の労働は一日の生活資料以上のものを生産する。ところが資本主義社会は、労働力を商品として買い入れるというばあいに、一日の生活資料を購入しうる賃金を支払えばよいという関係を基礎にして、はじめて確立されたのであって、ここに資本の利潤の源泉も確保せられることになるのである。(第一部第三章の一「産業革命」p103)
機械化の良い面についての別からの捉え方
産業革命の歴史的意義は、生産過程における作業過程の機械化によって、労働者がなお唯一の財産としてもっていた熟練をも奪われ、真に無産労働者たらしめられることにあるのである(第一部第三章の三「典型的な資本主義社会」p145)
現今、資本主義の商品形態・商品経済以外の関係をもつことが進められたりもするが、なかなか自由と安心の幅をひろげていくことは難しい。商品は社会を覆っている。
商品形態は社会と社会との間に発生するものであるが、資本主義社会はかかる形態を労働者と資本家の間にまで拡大することによって、生産過程までを支配することになった。しかしそれはけっして人間がみずから形成する社会関係をみずから支配し、生産物を処理するという社会ではなく、反対に生産力の発達段階に応じて生産物の商品形態をとおしておのずから形成される社会関係によって、生産物を生産した人間自身が支配されるという形態の社会にすぎなかったということ、これである。(第一部第四章の三「帝国主義的政策と国際的経済関係の変化」p213)
第二部「経済学説の発展」
売れないかもしれないという恐れ、しかし、すべてのものが売れるという世界も選択の余地がない世界のようでそれまた怖い。
労働の生産物はつねに商品として交換されるとはいえない。したがってまたその労働はつねに商品の価値を形成するとはかぎらない。(第二部第四章の三「古典経済学の限界」p310)
労働力の再生産というサイクル以外の領域もしくは視点をどうにか維持確保していくようにしたい。商品ではない私の活動の場の維持確保、言い方を変えてみるならば、商品経済にとらわれない活動の継続実践(たとえば、時には猫のように生きる。時には図書館のように生きる・・・)。
古典経済学は、資本主義社会というものは、単に個々の私的生産がその生産物をたがいに交換する関係にとどまらないで、他人の労働によって生産された生産物を、商品として販売する者と、自らの労働によって生産した生産物の一部を、賃金という形式をとおして、他人から商品として買いもどす者との、いいかえると、資本家と労働者との、市場における売買関係によって根本的に支配せられる社会であるということを、ある程度までは事実として認めていながら、理論的にはついに明白にすることができなかったのである。このように、生産手段ばかりか労働力までもが商品化して、商品が商品そのものによって生産せられるという根底からの商品生産の社会が出現し・・・(第二部第四章の三「古典経済学の限界」p313 太字は実際は傍点)
内容:
第一部 資本主義の発達と構造(宇野弘蔵)
第一章 封建社会とその崩壊
第二章 資本主義の発生
第三章 資本主義社会の確立
第四章 後期資本主義への転化
第二部 経済学説の発展(玉野井芳郎)
第一章 序説
第二章 一七世紀の経済学
第三章 一八世紀の経済学
第四章 古典経済学の確立とその解体
解説 佐藤優
宇野弘蔵
1897 - 1977
玉野井芳郎
1918 - 1985