読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

メルロ=ポンティの『心身の合一 マールブランシュとビランとベルクソンにおける』の敷居が高いので柄谷行人『世界史の実験』第2部1「柳田国男のコギト」の力を借りて読む

本書はフランスでの哲学の教授資格試験に備える学生を対象にした講義録。日本の一般読者層はターゲットではないので、わからなくても致し方ないのかもしれないが、分かるものなら分かってみたい。初読だと論点がどこにあるのか理解するのもあやしいほどに内容が頭に入ってこない。問題の多くは前提知識にある。大陸系の哲学ではよく名前が出てくるマールブランシュは、著作も参考書も日本ではそうは読まれていないし、ビランにいたっては意識的にははじめて聞く名前だ。人工知能関連技術の発展で、心と体の関係を問う心身問題については、ここ最近では、書籍等で比較的目にすることの多いテーマだが、こちらも特に詳しいわけではないので、メルロ=ポンティの講義の読解を助けてはくれるものではなかった。
通読して一週間、そろそろ図書館への返却期限が来るという時に、柄谷行人の「コギト」の和訳に関する提案のことをふと思い出して、とりあえずメモとして仮留めできる程度には理解できるのではないかと思い、ざっと再読しながら気になる部分をピックアップしてみた。

柄谷行人の「コギト」の和訳に関する提案】

 デカルトが主観(思惟主体)をもってきたのは、フランス語でJe pense,donc je suisと考えたからである。それをラテン語でいうと、jeは動詞の語尾変化の中に隠れてしまう。このことは、イタリア語やスペイン語でも同様である。だから、主観(思惟主体)の存在を強調しようとすると、フランス語でなければならない。であれば、彼が最後に、その部分だけをラテン語にしたのはなぜか。当初私は、これは論考を学術的に見せるための気取りではないのか、と思った。が、哲学の勉強をするうちに、そうではないということに気づいた。
 デカルトがいう主観(主体)は、われ(自己)とは別であり、一人称で指示されるようなものではない。ところが、フランス語でいうと、あたかも主観が経験的に存在するかのような誤解が生じる。経験的な自己と同一視されるといってもよい。のちに、カントはデカルトが見出した主観を、そのような経験的な自己と区別して「超越論的な主観」と呼んだ。これは一人称で指示されるような自己とは異なるものだ。だから、ラテン語のように、それが動詞の語尾変化の中に潜んでいるほうが、誤解が生じにくいのである。
(中略)
実は、私が以上のような事柄を想起したのは、柳田国男の「毎日の言葉」を読んだときである。彼は、「知らないわ」というような文末の「わ」は一人称人称代名詞だという。
(中略)
近年では、大阪弁の影響のせいか、東京でも男が文末の「わ」を使うようになった。例えば、「先に行ってるわ」などという。しかし、「わ」が一人称代名詞であるとは考えられていない。
(中略)
そこで、私は「コギト・エルゴ・スム」をつぎのように関西弁に訳し直すことを提案したい。《思うわ、ゆえに、あるわ》。
柄谷行人『世界史の実験』p97-103 岩波新書, 2019)

コギトの関西弁訳は日本語の語感としても、主観(主体)「わ」が事後的に発生し、後々とりまとめられる感じ、受動的に生成してくる感じがある。この感触を梃子にして、メルロ=ポンティの哲学講義(1947~48)『心身の合一』に再度向き合ってみる。

 

まず、ちくま学芸文庫の『心身の合一』カバー裏文で全体像確認:

デカルト以降の近代哲学において、最大の関心が払われてきた「心身問題」。単なる物体や精神ではない“両義的な身体”としての人間観を提唱したメルロ=ポンティは、この伝統的な問題系にたいして、どう立ち向かうのか。17世紀以降3つの世紀に特徴的なフランスの哲学者3人をとおして、神学や心理学的知見との関係も追いつつ、心身観の流れを再検討する。「どんな哲学史も哲学者による自らの研究主題の個人的捉らえなおしであり、それによってこそ真理が取り出されうる」と主張するフランス現象学者の、明晰にして格調高い古典解釈。

 

以下、本文検討。引用の太字は実際は傍点。


第二講「デカルトにおける心身の合一」

デカルトは、心身の合一を考えることができるなどとは、どこでも主張してはいない。その点は、あれこれ議論する余地のないほど確かなことである。彼が合一の問題について導入してくる諸観念は、その語のプラトン的意味で、神話的なのだ。つまり、それらは、哲学的分析で経験を汲みつくすことなどできはしないということを、聞き手に想起させるためのものなのである。(p20)

まずは近代心身問題の議論の提供者デカルトの出発点を確認。合一の問題について語られた言葉は生成の力を持った「神話的」なものであり、教条的で死を迎えた後の既決の問題ではないということを提起。

第三講「マールブランシュにおける自己意識」

マールブランシュは受動性の問題に直面したのだ。われわれは、直接的にはわれわれのものではない諸能力を相続している。私は、自分をそれと混同することがないような或る活動の諸結果を記録するだけである。マールブランシュにあるのは、精神の哲学などではなく、魂についての記号的で質量的な思想なのだ。認識は、そこでは、その統一を失う。p33)

マールブランシュ(1638-1715)は「すべての事物を神において見る」という主張と「機会原因論」で有名な神学・哲学者。イギリスのバークリーやヒュームなどの突き抜けた哲人に影響を与えている。

第四講「自然的判断と知覚」

「自然的判断」という言葉は、意識について、対立する二つの可能性を思い起こさせる雑種的で両義的な表現である。一方では、意識はつねに<感じ>であって、けっして私自身と私の思考内容との合致ではない。「私が私を感ずるのは、ひとに触れられるそのときの私自身のうちにおいてでしかないというのは、必然的なことであり」、観念の水準においてさえ、そうなのだ。感覚的意識と知的意識との違いは、私に対する叡智的延長の作用の違いでしかないのである。しかし他方、私を精神として定義するのは、統覚の事実である。(p38)

第三講と第四講で扱われるマールブランシュの思想は、神学色が弱めなぶん、主張がダイレクトに人間の意識や精神の構造に届いている感じがして刺激的。

第七講「神学と心身の合一」

「意志の働きは精神の本質には属さない。というのも、意志の働きは知覚を予想するからである」。したがって、意志は従属的なものになるわけである。意思が自分のうちにある力学的なものに気づくのは、完全性の関係においてである。思考自体がすでに「……への関係」なのだし、意志もまた、われわれを神へと近づける運動の一様相に過ぎないのである。(p65)

最後はすべてが神に帰される議論だが、そこに行きつくまでの思考の精緻さと定義の厳密さ、分離の厳しさは見事。とても西洋的。

第八講「マールブランシュからメーヌ・ドゥ・ビランへ」

自我と五感との関係は、五感を自我の単なる様態として、自我の統一の損失として扱いうるような関係ではない。五感は、自我にとって外的なのである。(p95)

身体の意識は純粋に外的でも、純粋に内的でもありえない。もしわれわれが自分の身体に住みつくと同時に、それを認識しようと思うならば、われわれは自己自身であろと同時に他人である必要があろう。(p101)

メーヌ・ドゥ・ビラン(1766-1824)はフランス革命期の中道右派の政治家で思索家。思惟の分析から神秘主義思想へと移っていった人

第十講「ビランとコギトの諸哲学(終り)」

神と世界との関係は、仮想的な魂と自我との関係とほとんど同じである。「われわれは、神が実体および無限な原因として存在しているのと同じやり方で、われわれの魂が実体ないし絶対的原因として存在することを実際に知り、また信ずるのである」。
結論として言えば、ビランの功績は、彼の哲学に固有な諸原理の知的所有によりも、むしろ彼の記述の若干のものにある。(p134)

最終的には絶対者に依存する弱い思想になってしまっていて残念という評価。

第十一講「「物質と記憶」― 第一章の分析の新しさと積極性」

だが、この実在論と観念論との同時的乗り越えは、ちょっと見ただけでも、失敗に終わっている。ベルクソンは、世界を一つの光景とみなすことを選んだために、実在論にはまり込み、主観を引き算によって実在化したのである。(p145)

ベルクソン(1859-1941)は直観と持続の哲学者。運動や生成の感覚が強く感じられることもあってか最近のAI関連の人文書などでよく参照されている思索者。メルロ=ポンティは『物質と記憶』はあまり評価していない模様。 

第十六講「ベルクソンの哲学における直観と構築作業との諸関係」

「オレンジ色を外部から知覚する代わりに、それと内的に共感するような、色の成分を持った意識は、自分が赤と黄の中間に置かれているのを感じ、おそらくは黄色の下にも、赤から黄に移りゆく色の連続が自然に延びるスペクトルの全体を予感しているであろうが、それと同様に、われわれの持続の直観も、純粋な分析がやっているようにわれわれを空虚のなかに宙ぶらりんにしておくどころか、持続の連続全体に接触させてくれる訳であるから、われわれは、それを下の方になり、あるいは上の方になりたどることを試みてならなければならない。上方と下方のいずれの場合でも、われわれは、ますます努力に励むことによって自分を限りなく膨張させることができるのであり、いずれの場合も、われわれはわれわれ自身を超越するのである」(「哲学入門」邦訳p291)。「超越する」というのは、まさにそのとおりだ。共感は、ここではもはや「みずから有機体になる」ことにあるのではなく、認識すべき物を捉え直そうとするある努力を予想するのだ。われわれはこの捉え直しのいろいろな手段、生命に意味を付与する手段を自分自身のうちにもっている。直観は、今や、意味の力によって記号と事実を結びつける働きとなるのだ。共感は、もはや受容のはたらきではなく、了解なのである。

メルロ=ポンティは『哲学入門』での了解の運動としての直観を語るベルクソンに可能性を感じている。(以上、あとは試験に備えよ、と言ったかどうかは不明

ということで、仮留め完了。
メルロ=ポンティの講義録『心身の合一』の内容は以下となる。
・批判的にたどる心身問題のフランスでの展開(デカルトマールブランシュ-ビラン-ベルクソン)。
・哲学の歴史の講義をとおしての主観の実在化の批判的考察。
・世界開拓の運動としての了解の擁護。
哲学教授資格を取ろうとしていない一般読者層でも、第十六講での結論としてでてきた、結合と超越の運動としての了解、という視点に触れることができたなら、ひと先ず講義を聞いたり読んだりしても損した気分にはならないはず。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

目次:
マールブランシュとビランとベルクソンに関する哲学史覚え書
デカルトにおける心身の合一
マールブランシュにおける自己意識
自然的判断と知覚
感覚的延長と叡知的延長
心身の諸関係における因果性
神学と心身の合一
マールブランシュからメーヌ・ドゥ・ビランへ
ビランとコギトの諸哲学
ビランとコギトの諸哲学(終り)
物質と記憶』―第一章の分析の新しさと積極性
物質と記憶』―第二章
テクストの注釈―「無意識」
テクストの注釈―存在の定義
テクストの注釈「経験をその源にまで尋ねてみること」
ベルクソンの哲学における直観と構築作業との諸関係

 

モーリス・メルロー=ポンティ
1908 - 1961
柄谷行人
1941 -
滝浦静雄
1927 - 2011
中村文郎
1946 -
砂場陽一
1947 -