読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

カール・ヤスパース『スピノザ』(原書1957, 訳書1967) 理想社 ヤスパース選集23

本書の興味深い点は、ヤスパースが《神即自然》の哲学者スピノザの静謐さに物足りなさを感じているところ。冷静なね、闘い方っていうのもあるのではないんですかね、と秘かに思いつつ、実存を語るヤスパースの熱さも注ぎ入れていただけることに感謝しながら読む。

スピノザの哲学的な宗教は、神の確実性によって平静と喜び、そして存在するあらゆるものへの一致をもたらす。《われわれは神が悲しみの原因であると洞察する限り、われわれは喜びを感ずるのである》。必然性の意識の中で何ものも欲しないという落ち着きが生じて来る。神の知的愛はニーチェの運命愛を生む。それは存在することだけを欲し、それ以外にはもうなにものも欲しないのである。われわれはスピノザの内面的な戦いについて経験することは決してない。初めから、彼の最初の言葉から、驚くべき平静さがそこにあり、魂の純粋さ、意志そのものにおいてもなお没目的性がある。
スピノザの哲学は、彼の神の確実性を通しての個人の自己主張、すなわち事物の根拠における平静さによって世界から独立していることを意味している。この自己主張は特殊な現存在の享受としての個体主義ではないし、また自己中心的な反省への傾向ももたない。むしろ理性における最もとらわれない精神をもって神に帰依することである。それは人間社会の現実から自分自身の生活に閉じこもることを意味せず、むしろその現実に大きな関心を寄せることである。――しかしそれ以上のものではない。(九「スピノザ哲学の批判的な特徴」p244-245)

彼は積極的に世界の変革のために働くという熱狂性を知らない。彼は人間の責任の中にあるよりよき世界への希望を知らない。永遠に生きるものは未来に生きるのではない。神は不変である。その全体の同一性にもかかわらずあらゆる有限様態は常に変化するとしても、無限様態の現存在は不変である。
スピノザは限界状態を知らない。彼は恐怖の深淵、無の絶望、神との戦いを知らないし、理性そのものに現われる積極的な可能性としての不合理的なものの力、端的に潜在する秘密も知らない。彼の平静さは神が存在するという積極性の中にある。しかし神は、あらゆる恐怖を単に非十全な観念に帰せしめる際の、また何の平静さも与えないあらゆる非合理的、反理性的、超理性的なものを防止する際の、理性としての理性の中にのみある。あらゆる事物の根源にある神の確実性は地平の矮小化として現われるか、それとも到達し得ないものへの還帰として現われる。(九「スピノザ哲学の批判的な特徴」p256-257)

ヤスパースの視点も正しいのだろうが、「彼は人間の責任の中にあるよりよき世界への希望を知らない」というのはすこし言い過ぎだと思う。ユダヤ教会から破門され、暗殺未遂に遭いながらも、精緻な体系知をベースに、論争を巻き起こすこと必然の、根底的な政治論・神学論を書いたのであるから、「より良き世界への希望」、願い、情念は十分にあったと考えるほうが実状に近いのではないだろうか。殺されることなく、オランダの市民として生き続け、思索し続けたことが、スピノザ流の実存への向き合い方であり、世界変革の方法だったのだと思う。スピノザの限界を指摘し、スピノザを超えるスピノザを期待してしまうのは、ヤスパーススピノザへの愛と尊敬の裏返しなのだろう。

《一体何処から自然の中にこんなにたくさんの不完全なものが生じてきたのか。すなわち事物を悪臭にもたらすまで腐敗させるもの、事物の畸形、悪心が生じたのか、混乱、悪、罪等々はどこから生じたのか》。スピノザは絶対的なものとして前提されている悪の事実を否定することによって、その問題に答えた。その悪の事実は、自分に対する利益を有限知性によって比較し、この世界においてあくまで自己主張をなそうとする様態的存在の表象の中にのみ見られる。
しかしこの表象の仕方は、様態としての有限本質に帰属するものとしてそれ自体必然的であり明晰である。この意味においてスピノザは現存在のこの状態をその有限性、制約、混乱における様態として叙述したのである。(六「没目的性と没価値性」p103-104)

人間は有限者であり、完成もない。だが、制約のなかで充実し、源泉に還帰し止揚することは可能である。ヤスパース自身がスピノザを通して教えてくれている。

スピノザの関心は、われわれの洞察の源泉を取り違えてはならないということであった。われわれは現実の世界の中で無際限に多くの経験をなす。ここではわれわれは決して完成せず、常に関係の中に、すなわち《相対的なもの》の中にとどまる。われわれは現実の中で常に現在的に経験をなし、完成の中にあって自己現在的なもの、絶対的なものの中で依然として存在する。この後者の経験が時間の中に入るときそれは思想の運動の中で説明される。その思想の運動は自らが生まれたところに還帰するところにその意義がある。(四「認識論」p61)

彼は思惟しつつ神に近づくのではなく、超越において根源的に思惟するがゆえに、可能となったのである。彼は思惟しつつ神に近づくのではなく、事物の認識の中で思惟しつつ神からくるのである。彼はあらゆる規定が有限化であること(omnis determinatio est negatio)を知っており、また思惟が諸規定の中に生ずることを知っている。しかしあらゆる諸規定は、言語において表現される思惟(様態に属する思惟)が無規定的なもののもつ本来的な思惟の中で止揚される場所に、その否定を通して達するための導きの糸である。(四「認識論」p81)

明晰であること、それ自体が目的、それ自体が価値となる。


メモ【付箋箇所】
30, 45, 47, 53, 61, 73, 81, 87, 88, 90, 92, 101, 103, 117, 122, 128, 129, 130, 134, 145, 168, 193, 213, 218, 238, 244, 256

※引用部の太字は実際は傍点

カール・ヤスパース
1883 - 1969
スピノザ
1632 -1677
工藤喜作
1930 - 2010