読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【カール・ヤスパース二冊】『哲学的信仰』(原書 1948, 理想社 1998)と『哲学入門』(原書 1949 新潮文庫 1954)

ヤスパースの講演録とラジオ講演録。宗教で説かれてきた神と区別するために、主観‐客観の分裂を超えた存在として「包括者」という概念をヤスパースは用いて存在を根底付けようとしているが、「超越者」、「神」といった言い換えも多く、特に『哲学入門』では一般的な神概念と区別がつかないものになっている。人間存在は包括者によって世界に埋め込まれた暗号を解くことを求められているという、一種神秘的な方向性も説かれていて、基本的に唯物的な傾向にある私のような人間とは別の世界を見ているのだなと確認することができた。実存主義の代表的な哲学者としてのヤスパース哲学史の優れた教師としてのヤスパースにはわりと関心があり、何冊かの書籍でお世話になっているのだが、神や世界の暗号解読というようなもにはあまり関心が向かない。ヤスパースにとっては根底に虚無を抱える悟性の成果である科学の知見にむしろとどまることを私は好んでいるらしい。
しかし、何故ヤスパースが包括者を強調するのかというところは、関心を持って読んだ。両講演ともに、包括者=神の存在がなければ、人間はニヒリズムに落ち込むほかはないというところに力点が置かれていた。ニヒリズム。根源の目的も意味もないというのは、なるほど、ニヒリズムに陥る環境の特性があるのかもしれない。だが、ニヒリズムでさえ目的も意味もないなら、存在することを嫌悪したり放棄したりする必要もないだろう。「生きていさえすればいいのよ」という太宰の『ヴィヨンの妻』のことばの肯定面を噛みしめながら生きていさえすればいいんだと思う。ニヒリスティックになることを警戒しながら、今現在存在しているということに眼を向けていけば十分だろう。無神論者にとって「み心が行われますように」という祈りを代替するのはそんな想いだ。

限界状況のうちには、無が現われるか、それともあらゆる消滅する世界存在に抗し、それを超越して、本来的に存在するものが感得されるようになるか、のいずれかであります。絶望でさえも、それが世界内で可能であるという事実によって、世界を超え出ることの指示者となるのであります。
(『哲学入門』第2講「哲学の根源」p32)

限界状況に現われるのは無ではなくて単に限界であろう。思惟し行為することによってその限界状況に変化が現れるなら、それは超越者がいるからではなく、世界の内容物の配置換えが起こっただけのことであろう。世界を超えて何かがあるというのは私にとっては想像外のことであるし、信仰外のことである。信仰ということばに関してなら、信仰は複数あるというのが私の信仰である。限界状況という暗号=シンボルも、その記号の配置によって身にまとう意味内容はそれぞれに異なってくる。

 

【付箋箇所(『哲学的信仰』)】
32, 39, 56, 61, 67, 72, 83, 88, 96, 100, 115, 154, 170173, 174, 178, 195, 197, 202, 233, 244,246, 252

 

『哲学的信仰』
目次:
第1講 哲学的信仰の概念
第2講 哲学的信仰の内容
第3講 人間
第4講 哲学と宗教
第5講 哲学と非哲学
第6講 未来の哲学

 

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『哲学入門』
目次:
第1講 哲学とは何ぞや
第2講 哲学の根源
第3講 包括者
第4講 神の思想
第5講 無制約的な要求
第6講 人間
第7講 世界
第8講 信仰と啓蒙
第9講 人類の歴史
第10講 哲学する人間の独立性
第11講 哲学的な生活態度
第12講 哲学の歴史
付 録 はじめて哲学を学ぶひとのために

 

カール・ヤスパース
1883 - 1969
林田新二
1929 -
草薙正夫
1900 - 1997