読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

エドムント・フッサール『幾何学の起源』(執筆 1936, 中公文庫 1995, 青土社 1988)

文化を担っているという意識をことさら持たなくとも、日常の活動の中で、文化的なものを伝える媒質あるいは再生する装置としての自分自身というものを思うと、すこしプラスの感情が発生する。フッサールの『幾何学の起源』の文章は、そうした機会を発生させる着火剤のような働きをもっていると思う。

文字記号は、純粋に物体的に考察されるならば、そのまま感性的に経験可能であり、そして共同性のうちで相互主観的に経験されうるという不断の可能性のうちにある。しかしそれは言語記号としては、語音と同じように、そのなじまれた意味を呼びおこす。喚起は受動性である。したがって呼びさまされた意味は受動的に与えられるのであり、あたかもそれまで闇のなかに沈んでいたすべての能動性が連合的に呼びさまされ、まずは受動的に多少とも明晰な想起として浮かび出るのと似ている。想起の場合と同じように、ここで問題になっている受動性の場合にも、受動的に呼びおこされたものがいわばもとの姿に変換されて、それに対応する能動性へ引き戻されるのである。それは言語を話す存在としてのすべての人間に本来そなわっている蘇生の能力である。それゆえ、書き留められることによって、意味形象の根源的な存在容態の変換、幾何学の領域で言えば言表に達する幾何学的形象の名称の変換が行われる。書き留められた意味形象はいわば沈殿するのである。しかしそれを読む者はそれを再び明証的にし、明証を蘇生させることができる。
鈴木修一訳『幾何学の起源』 青土社版 p272-273 太字は実際は傍点、中公文庫該当箇所はp503-504)

沈殿している意味形象や伝統の運動を蘇生させるということを、キリスト教のイメージを援用させていただくと、私のなかで小さな復活の時が継続的に起こっているというようにとらえることもできると思う。無限遠を想定することなく、いまここの現場で感得実践できる復活の時。私自身は復活させられ蘇生救済されるものではなく、復活の地平あるいは復活の劇場そのものとして、日常的に存在している、飛躍なしの天国界、転換なしの仏国土。その世界を普通に生きる。

能天気と言えば能天気な、お花畑も広がっている世界。

 

いまやわれわれは、歴史 Geschichte とは、元来、根源的な意味形成と意味沈殿が共存し含みあう生きた運動にほかならない、ともいうことができる。
鈴木修一訳『幾何学の起源』 青土社版 p292、中公文庫該当箇所はp521)

 

ちなみに、訳文の違いを感じていただくために中公文庫版の『幾何学の起源』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の付録二 木田元訳)から二つ目の引用箇所を引いておく。

われわれはいま、次のように言うこともできよう。すなわち、もともと歴史は、根源的な意味形成と意味沈殿とが相互に共存し合い、相互に内在し合う生きいきとした運動以外のなにものでもないのだ、と。

個人的には青土社版のほうがとっつきやすい感じを持っているが、中公版の訳文では青土社版と違ったところを注視・マーキングしたりしているので、一概にどちらがいい訳文ということは言えない。

 

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エドムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール
1859 - 1938