読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

鮎川信夫の詩(1946~1972の詩:鮎川信夫著作集第一巻 思潮社 1973)

最近T・S・エリオットの「ゲロンチョン」を注釈を見たり、ネットの記事を見たりしながらゆっくり繰り返し読んでいる中で、エリオットの訳といえば鮎川信夫のもあったよなあと思い、図書館で鮎川信夫著作集の該当巻を借りて読んだ。「荒地」と「プルーフロック」だけで、残念ながら「ゲロンチョン」の訳は無かったのだけれど、せっかくなので鮎川信夫自身の詩も読み返してみた。


戦後詩の代表的な詩人であるにもかかわらず、あらためて読んでみると、残念ながら私にはあまり詩的なものが伝わってこなかった。まず行替えしている意味がよくわからない。そこに関しては戦後詩の歩みをともにしていた田村隆一の詩のほうに、より詩的なものを感じる。一行の凝縮度にかける気合の違いだろうか。


二〇世紀の詩のひとつの頂点である「荒地」と比べるのも酷なのかもしれない。でも、鮎川信夫によって日本語訳されたエリオットの詩の方に、より言葉のリズムも行替えの必然性も感じる。言葉の圧縮と配分と先行作品への関わりなど、エリオットの方は紛う方なき詩であるのだ。


鮎川作品の中で今回一番詩を感じたものは以下の一篇。


帰心

木を伐り倒す男らしく
空をいくらか明るくした
 それからは人に会わない
背をこごめて街中で生き
手と膝をついて歩くこともあった
 いまでは腰がいたむ
空はいつもくもっていて
男はしきりに木に還りたがった

 

形も内容も音の印象も比較的まとまっていて、変化もあっていいなとおもいつつ、最後は「男はしきりに木に還りたがった」ということで、「空をいくらか明るく」するために「木を伐り倒す」ことが望みのようで、そう解釈すると、小さな哀感に共感はしても、詩に期待してしまう振り切れた感覚、一種の崇高さの方向には向かってはいかない人なんだろうと、私は勝手に位置づけてしまう。

 

鮎川信夫
1920 - 1986
田村隆一
1923 - 1998
トーマス・スターンズ・エリオット
1888 - 1965