読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルティン・ハイデッガーのシュテファン・ゲオルゲ論『言葉』(初出 1958, 理想社ハイデッガー選集14 三木正之訳 1963)

原題は「詩作と思索 シュテファン・ゲオルゲの詩《言葉》に寄せて」。

言葉 (部分)

あるとき私は よい旅のあとで 着いた
ゆたけく また 愛らしい宝石を一つもって

女神は長らく探し それから私にお告げをくれた、
<さようなものは この深い底に 眠ってはおりませぬ>

すると私の手から それは逃れ去った
そして私の国は 二度とその宝を 手に入れえなかった・・・

こうして私は 悲しくも 諦めを学んだ、
言葉の欠けるところには なにものも 在らずともよし。

 

ゲオルゲの「言葉」ははじめ一九一九年に雑誌に掲載され、一九二八年に最後の詩集『新しい国』に収録、出版されている。ハイデッガーは「言葉」の最終聯ので詩人が語る諦めの経験、諦めの学びとしての言葉、「なにものも 在らずともよし」をめぐって思索を展開する。この思索の中でトラークル論でも語られた苦痛―本質の回路がふたたび取り上げられいるのだが、ゲオルゲの詩の諦め=苦痛はみずから納得し受容した経験を歌い上げていることもあるのだろう、非常にのみ込みやすいものとなっている。

悲しみと喜びとは互いにまじり合って演じられるのである。これを演じること自体、すなわち、遠きを近くに、近きを遠くにあらしめつつ、喜びと悲しみの両者を交互にまじり合った調子にするもの、それが苦痛である。それ故に、両者、最高の喜びも最も深い悲しみも、共にそれぞれの仕方に応じて苦痛にみちている。苦痛はしかし、死すべき人間の心情を、それがそこから――苦痛から――己の重心をうけとるという気持ちにするものである。この重心が、死すべき人間を、あらゆる動揺にもかかわらず、その本質の安定のうちに保つのである。かかる苦痛に一致する「心」、muot苦痛により、また苦痛へ向けて調子を合された心情が、重き心として憂愁である。そのような憂愁は、心情をおしつけ銷沈させることはありうるが、しかしまた、その重荷を失い、その「ひそかな息吹き」を魂にしのび寄らせ、魂に、よそおいの飾りを与えることもありうるのである。そしてこの飾りは魂をことばへの貴重な関係へとつつみ入れ、そしてこのつつむ衣の中に守ることとなる。
ハイデッガー選集14『詩とことば』「言葉」p111)

 

引用されているゲオルゲの詩句からは「苦痛」や「死すべき人間」といった強い言葉のイメージまでは湧いてこないものの、喜びと悲しみの混交のなかで力のバランスが取れている状態の安定を感得するという回路の指摘は受け入れやすい。さらに、こう続けられる。

たった今過ぎて行った憂愁の、ひそかな息吹きを以て、悲しみは、諦めそのものを吹きぬけるのである。何故ならば悲しみは、もし我々がこの諦めをその最も固有の重さから思考するならば、諦めに所属しているからである。此の重さとは、言葉の秘密に対して自らを-拒ま-ぬことであり、つまり言葉が物の物在作用たることに対して自らを-拒ま-ぬことである。
ハイデッガー選集14『詩とことば』「言葉」p111-112)

 

言葉の本来の在りようを経験し通りぬけ歌うことで、詩人ゲオルゲは本来的にないものを諦め、悲哀とともに充足を味わってもいる。詩の読者はハイデッガーの思索に支えられながら、詩人が出会った言葉の本来性の体験を追体験できる。苦痛はひとつではなく、トラークルとゲオルゲの苦痛も当然違ったもので、後期ゲオルゲの安定した語りの中でしずかに流れる苦痛=諦めの情には、歩みをとどめ目を向けやすい親しさが宿って居る。

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
シュテファン・ゲオルゲ
1868 - 1933
三木正之
1926 - 2018