読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】06 素材(ヒュレー): 中公『世界の名著 続2』からプロティノスのテクスト11篇 1750年前の「一なるもの」「知性界」「感性界」の記述のあわいをうろつき観照する

善なる一なるものから、いかにして悪が産出されるのか? プロティノスを読み進めていく興味の中心はその一点に尽きた。

 

プロティノス (205 - 270)  収録テキスト11篇】

田中美知太郎 訳
 善なるもの一なるもの
 三つの原理的なものについて
田之頭安彦 訳
 幸福について
 悪とは何か、そしてどこから生ずるのか
 徳について
 美について
 エロスについて
 自然、観照、一者について
水地宗明 訳
 英知的な美について
 グノーシス派に対して
 一なる者の自由と意志について

 

一なるものは完全であり善であるいっぽうで、基本的に悪は不完全で不足をもったものである。以下に、悪に関係する思索部分をピックアップ。プロティノスの言葉を組み上げていくと、善を肯定するための契機として悪は必要、というなんだかいやらしい論理構成となる。必要なものであるのならそんなにさげすむこともないだろうに、と21世紀のただの本好きは思いながら先人の言葉に学ぶ。

 

【善なるもの一なるもの】
物体は物体によって妨げられて、相互に共同することができなくなるけれども、物体でないものは、物体によって分けへだてられるということはないのである。(8節 p139)

 

【三つの原理的なものについて】
余計な付加物を取り除いて、完全に純粋なそれを捉えて、よく見るならば、君はそこに同じ尊いものを見つけるであろう。それが本来のたましいなのであって、およそ肉体的、物体的なもののすべてにまさる価値をもつものなのである。(2節 p152)

一なるものは、万物を生むことの可能な力として存するのである。(7節 p160)

 

【幸福について】
魂と肉体に共通している生の中には、幸福はない。プラトンも、「知恵のある幸福な人になろうとする者は、あの上の世界(知性界)から<善きもの>を取り、これを眺め、これと同じになり、これにしたがって生きなければならない」と考えているが、この考えは正しいのである。(16節 p194)

 

【悪とは何か、そしてどこから生ずるのか】
物体の種族は、素材に関与するものであるから、その点からみると第一義的な悪ではないけれども、とにかく悪といえるだろう。それというのも、肉体のもっている形相(エイドス)は真実のものではなくて、形相の*ようなもの*にすぎないのであるし、また、物体は生命を欠き、自分たちの不規則な動きによってたがいに滅ぼしあい、魂に固有な活動を妨げ、たえず流動することによって真実性(ウシア)から遠くへ逃げ去っているからである。(4節 p201)

素材の本性は<貧しさ>につきているので、その素材が原因となって或るもの(諸善)を必要とするようになるが、貧しさとは、それを必要としたり欠いていたりすることである。(5節 p204)

しかし、どうして、善があれば、悪もなければならないのだろうか。はたして、この宇宙万物の中には素材がなければならないから、悪もあるのが必然なのだろうか。
そうなのだ。つまり、この宇宙万物は、相反するものから作られているのが、何といっても必然なのであって、もし素材がなければ、この宇宙万物もありえないことになるのである。
(7節 p207)

もし人が、「諸存在の中には、要するに、悪いものなんかないのだ」と言うなら、彼の立場としては、善いものの存在をも否定することになるのが必然であって、(その結果)また望ましいものは何もないということにもなるだろう。だから、求めることも避けることも、また知性を働かせることもしないようになってしまうだろう。それというのも、人は善を求め悪を避け、善と悪にたいして知性や叡智を働かせるのであって、その知性の働き自体が、或るひとつの善きものだからである。(15節 p218)

 

【徳について】
適度さをまったくもっていないものは<素材>だから、神に似ているところはまったくないが、形(エイドス)にあずかるものは、そのあずかる程度に応じて、あの世界の神に――それは形をもたないものであるが――似てくるのである。(2節 p226)

 

【美について】
魂が醜いのは、異質のものと混合し結合して、肉体や素材の方にひかれるからだと言えば、正しいだろう。(5節 p246)

 

【エロスについて】
<思慕>はつねに<欠如の状態にあるもの>がこれをもつのであるから、エロスの母は<べニア>ということになる。ところが、<べニア>とは素材のことである。なぜなら、素材もすべてを欠いているものであるし、善にたいする欲望の基(もと)にあるのは<無規定なるもの>であって――というのも、善を思慕するものの中には、いかなる形(モルベ)もロゴスもないからであるが――これが、思慕するものを、その思慕の程度に応じて素材的なものとするからである。(9節 p273)

 

【自然、観照、一者について】
知性には、素材と――ただし、これは知性界の素材のことであるが――形相の二つの面があることになるだろう。というのも、現に活動している視覚にも、二重性があるからである。つまり、知性は見る前は一つだったのである。だから、一つが二つになり、その二つが一つになったのである。そして、われわれの視覚のばあいには、感覚対象によって充足され一種の完成状態に達するのに対して、知性の視覚のばあいにはこれを充足させるものは<善>なのである。というのも、もし知性自体が<善>だったら、見たり、あるいは要するに、活動したりする必要はなかったはずだからである。(11節 296)

 

【英知的な美について】
かの世界(引用者注:英知的=知性的世界)における観照には、労苦も伴わないし、観照者が満ち足りて止めてしまうということもない。なぜなら、満たされた結末に到達して満足する条件としての、(事前の)空虚(むなしさ)というものもないのだし、またかの世界の一員の諸状態が他の一員の気に入らぬということが生じる条件であるところの、各成員の相異ということもないからである。それにまた、かしこのものは消耗することもないのである。(4節 p307)

 

グノーシス派に対して】
すべてのもののうちで最も無力なもの(すなわち素材)のみが、もはや自己の下方に何も有しないのである。他方かの世界には驚嘆すべき力が走行しており、その結果(この世界を)産出しもしたのである。
ところで、もしこの世界よりももっと良い(模像的)世界が他にあると言うのならば、それはどんな世界なのだ。他方、もし何らかの(模像的)世界が存在することが必然的であって、しかも他にはないとするならば、この世界こそかの世界の模像(おもかげ)を保存するものである。(8節 p339-340)

 

【一なる者の自由と意志について】
われわれは、本来の意味で想念(パンタシア)と呼ばれるべきであろうような想念、すなわち肉体の諸情態によって呼び起こされる想念を――例えば食べものと飲みものがからっぽになっている情態がある種の想念をいわば形成するのだし、逆にまたいっぱいに満ちた情態もそうである。また精液の充満した人は(そうでないときとは)違った想念をもつし、その他体内のもろもろの液汁の各性質に応じて、いろいろな想念をもつわけではあるが――この種の想念に基づいて活動する人々を、自主的な始元(行動主体)のうちに、われわれは数えはしないであろう。だからこそまたわれわれは、通常この種の想念にしたがって行為する劣等な人間には、彼ら次第のことをも自発性をも認めないのであり、他方英知の活動に従って行為し、肉体の状態からは自由である人にこそ、自主性があることを承認するであろう。(3節 p369)

 


感性界に万物は創造され、そこには時間と空間がある。それに対して一なるもの、知性界(叡智界)に被造物はなく、無時間、無空間で不動の善なる働きがある。われわれ人間は基本的に感性界下の創造物、合成物であり、知性の働きを分有されていることで、一なるもの、知性界に繋がる可能性を秘めていると言われており、肉体あるいは身体を滅して知性界に参入することが良きふるまいと説かれている。しかしながら、肉体を離れるというのは、仮にあったとしても、特権的な人間のみに可能なことで、21世紀の一般市民は身体をベースに働き、自分を養い、生きているのが普通だ。自主性や自発性よりも強制や制約や単なる習慣のほうに影響されて行為していることが多いかもしれないが、それでも各自の行動やふるまいに自主性や自発性があると仮定することで、妥当な抑止が働いて社会生活が成り立っている。善きものに関する考察には礼を執りながら、完全には与することなく、ままならない身体への配慮をつづけながら、知性的な活動を心がけるくらいがちょうどいいのではないかと思う。「完全には与しない」というのが私にとっての自主性であり、行動や思考の指針となってくれることと思う。

諸悪の根源ともいいうる「素材(ヒュレー)」の存在は必然的だということだったが、一なるものから感性界に創造されるメカニズムを詳細に知りたい気持ちはモヤモヤと残っている。また人間の身体について、生まれ、育ち、老い、死すという経路の必然性のようなものが語られていないのは残念。また身体については性差についても知りたかったし、知性に性差のようなものが有るかどうかも聴いてみたかった。知性については性差なしという男性性一元論のような印象をほのかに感じもしているが、本当かねと思っている。あるいは知性に性差があれば誰かに体系立てて教えて欲しいものだとほんのり思っている。