読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】05 存在: 平凡社『中世思想原典集成16 ドイツ神秘思想』からマイスター・エックハルトのテクスト8編 神と存在について。ハイデッガー読解に役に立つかも

多くは形式に則った公文書。『神の慰めの書』にくらべればより学問的な内容となっている。『パリ討論集』を頂点に神と存在についての説教・講解を多く集めている。

【収録テキスト】
・主の祈り講解
・命題集解題講義
・一二九四年の復活祭にパリで行われた説教
・聖アウグスティヌスの祝日にパリで行われた説教
・パリ討論集
・集会の書(シラ書)二四章二三—三一節についての説教と講解
・三部作への序文
・高貴なる人間について

『パリ討論集』のなかでは「神は、存在者もしくは存在ではない」(p225)といわれ、それ以外の教説では「神自身が存在だ」(『三部作への序文』「三部作への全体的序文」p335)あるいは「存在は神である」(『三部作への序文』「註解集への序文」p349)といわれ、どちらが本当かと推量するに、よりラディカルな表現である『パリ討論集』の「神は、存在者もしくは存在ではない」のほうを、エックハルトの思索の核として私は取りたい。

存在は第一に、被造物の本質規定を有しているのであり、したがって或る人々は次のように言っている。すなわち、被造物においては存在のみが作用因の観点の下で神を受け取るのであるが、本質は神を範型因の観点の下で受け取るのである。しかし知恵は知性に関係しているのであり、被造物の本質規定を有していない。そしてもじ「集会の書〔シラ書〕」二四章〔九節〕において「私は初めから、世の前から造られていた」と言われているから、けっしてそんなことはないと言われれるならば、この場合の「造られていた」とは「生まれていた」であると説明されうるであろう。しかし私はこのことを次のように違った仕方で述べる。すなわち、「初めから、造られた世の前に」、「私はある」。したがって創造者であり、被造物でない神は、知性であり、知性認識であって、存在者もしくは存在ではない。(『パリ討論集』「1.神において存在と知性認識とは同一であるか」(1302/03年)p225)

 

「知恵は知性に関係しているのであり、被造物の本質規定を有していない」というのもすごいが(要するに被造物は知性の面では基本的にからっぽである)、神の側の知性について、原因も目的ももっていないとあらためて明示的に解かれるのも、また衝撃的だ。

 

すべての事物は、それ自身の活動のために存在している。したがって、もし知性認識が神の存在とは異なるものであるならば、神自身とは、そしてまた神がそれであるところのものとは異なる目的を神自身に与えることがありうることになるであろう。これは不可能である。なぜならば、目的は原因であるが、第一のものに原因を与えることはありえないからである。さらにまた、第一のものは無限なるものであり、無限なるものには目的は属さないからである。
(『パリ討論集』「1.神において存在と知性認識とは同一であるか」(1302/03年)p223)

 

無限が出てくると人間の思考は途端に危ういものになる。一、有、存在、無、無限、みな考え出すと道に迷うものばかり。基礎づけに戸惑う概念ばかり。だから、ずっとそのことを思考の対象としてきた西洋の哲学と神学の歴史に触れると、その厚みにびっくりすることになる。知の歴史に出会うのが遅すぎたという面は、私の個人史のなかでは否定できないものになってしまったが、とりあえず出会いびっくりすることができている点には感謝したい。

いまわりとたくさん読んでいるハイデッガーの「存在」についても、この知の歴史、エックハルトの語った「存在」と併せて読むことで、新たな理解が生まれてくるかもしれない。ハイデッガーの言説に神が直接出てくることはないが、神をベースに教え説くエックハルトの言説、ハイデッガー自身も傾倒したエックハルトの言説を重ねてみることで、もどかしさを感じていたハイデッガーの読解に何かしら別の光が当たるかも知れない。

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山善樹(訳)
1950 -