聖書を括弧に入れて神について語ったことで画期的な中世の神学書、全八〇章。スピノザの『エチカ』の先行的位置にある作品。ただしこちらで論ぜられているのはキリスト教の神、「三位で一なる神」というところと、散文による自分自身との対話(瞑想、黙想)による表現というところに大きな違いがある。
第九章
無から創られたものは、それが創られる前、創造者の理性(rationem facientis)との関係において無ではなかったこと
創られたものは、創られる以前は――今存在しているものは存在していなかったし、またそれらが創られるものも存在していなかったという点で――無であったことは明白だが、創った者の理性との関係においては、理性を通し、理性に従って創られたのだから、無ではなかった。
神の理性が像としてもったところのなにかが創られる前の無に対応していると説いている。
第一七章
合成されているものは、いずれもそれが自立するために構成要素を要し、その存在するところをそれらに負っている。それが何であるにせよ、それらを通して存在し、それらがそれを通して存在しているのではないからである。そこで、合成されているものは決して最高ではない。
最高の本性は合成されたものではなく、それが何であるかということは分析的には言えない純一なものであると説いている。
第二一章
この本性がそれ自体で、始めなくまた終りなく存在するだけでなく、この本性がないなら、何ものも、どこにもまたいつでも存在しないことも反論の余地のないほどに確かであるから、必然的にこの本性はいたるところに常に存在する。
分割されることない存在形態。
第二九、三〇章
最高の霊は唯一であり、あらゆる意味で個体であることは明らかであるから、霊のこの言表は必然的に霊と同実体であり、それらは二つでなく一つの霊である。(中略)最高の本性が最高に純一であるように、言表もまた純一だからである。それゆえ、この言表は多くの言葉から成らず、一つの言葉であり、それによってすべてのものは創られた。
合成されていない純一の言葉。自然言語ではない永遠の言葉。
これ以降「三位で一なる神」が論じられアクロバティック。子と霊が信仰のないものにはよくわからない。
第六三章
各自が自己を語り、またすべてが互いに他を語るにしても、最高の本質のうちには次の言葉以外の言葉が存在することは不可能である。すなわち、すでに確実となったように、それがその者の言葉である者から生まれ、その者の真の像また真にその者の子と呼ばれることが可能な言葉である。
一即多といった考えをぶつけていかないと飲み込めない。像も子の言葉も、一被造物にもある意味理解可能な部分に見えてしまう。真の一つの言葉から発出したものであるから真の言葉と同一と見なすことが可能、といったことが言われても、はい分りましたとはなかなか言えない。後は信仰するかしないか、運命的なものに委ねるよりほかない。私は信仰に至らない方に属する。
第六四章
崇高な事象の神秘は、私には人間の知性の全能力を超えたものと思われ、これがどのようなものか説明しようとしても、その努力は放棄されなければならないと考える。
たとえ信仰するに至らなかったとしても、思考の限界、表現の限界に触れるところまですすんでいく過程は、誰でもたどりなおす価値のあるものとして残されている。暗黒の中世という言葉があるが、中世の神学的成果として残されているものは決して暗黒ではない。
長沢信寿訳の岩波文庫もある。
カンタベリのアンセルムス
1033 - 1109
古田暁
1929 -