読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ロラン・バルト『テクストの楽しみ』(原書 1973, 鈴村和成訳 みすず書房 2017)

テクストの快楽、読むことの歓び。

ロラン・バルトの軽やかな誘惑に乗せられて、本を読むことはいいことだと単純に読みすすめていくと、人生のメインストリームからは見事に外れていくことにもなるので要注意ではあるのだが、気がついた時には岸辺からすら遠く流されていてもう戻ることもままならないというのがありがちなパターン。「テクストの楽しみ、それは漂流だ」とバルトは言っているのだけれども、テクストを読む以外の人生の時間も漂流しがちになるということを指摘してくれていたかどうかはかなり微妙なところ。また、人生における漂流が楽しいかどうかについてバルト自身の語りの対象としていたかどうかについてはさらに微妙。読むも読まぬも自由、漂流するも漂流せぬも自由、強制はしないのがバルトのテクストの軽やかな美点だというのは昔から分かってはいるのだが、50歳でしがない賃金労働者をやりながら、本を読むことくらいしか楽しみがないという自分の境遇を顧みると、ちょっと愚痴のひとつもこぼしたくなる(バルトの嫌いなネバネバしたことば)。

テクストの楽しみはどうしたって、勝ち誇った、英雄的な、筋骨逞しいタイプのものではありえない。そっくり返ったりする必要はない。私の楽しみは大いに漂流のかたちを取ってしかるべきだ。漂流は生起する、――私が全体なるものに考慮を払わないとき、いつだって。波に乗るコルクの栓さながらに、言語の幻覚や誘惑や威嚇の間に間に運ばれてゆくかと思われる結果、わたしをテクストに(世界に)結びつける、もてあつかいかねる歓びのうえでくるくる回り、まるで不動の状態にあるとき、いつだって。漂流はある、――社会的言語、社会言語が、私に欠けるとき(勇気が私に欠けると言うように)、いつだって。それゆえ、漂流の別名、それは<あつかいかねるもの>というのだろう――あるいはおそらくまた、――<愚かしさ>と。
ロラン・バルト『テクストの楽しみ』 p38 太字は実際は斜点)

「あつかいかねるもの」「愚かしさ」は、なんとか擁護し養っていってやる必要がある。バルトは読み、教え、語り、書くことで、「あつかいかねるもの」「愚かしさ」を擁護するばかりでなく、華麗に称揚した。うらやましいかぎりの資質と才能と対応力だ。市井の一読者たる私は、仕事の合間の余暇にかろうじて「あつかいかねるもの」「愚かしさ」に伸びをさせてやる程度だ。仕事には不要な本をおもに読んでいることもあって、余暇中に労働力の再生産はあまりできていない。


ロラン・バルト『テクストの楽しみ』は、以前は同じみすず書房から沢崎浩平訳(1977)で出ていて20代のころよく読んでいた。今回読んだ鈴村和成訳は句読点の位置が特徴的で、おそらく原文により近い訳なのだろうという印象をもった。また、訳者解説では「小説を書かない小説家」とも評されたロラン・バルトの作家像を新たに鮮明にしてくれていて感心した。

 

www.msz.co.jp

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ロラン・バルト
1915 - 1980
鈴村和成
1944 -