読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(原書 1980, 河出書房新社 1994, 河出文庫 2010)

すごかった。笑える哲学書というのもめずらしい。本文もそうだけれどインパクトのある挿入図が独特で、その突飛さに思わずなんども吹きだした。笑いだけではなく、おそろしくいろいろなものがつめ込まれている。喜怒哀楽、戦慄、絶望、恐怖、愛、戦略、計画、抵抗、逃走、そして闘争。全15章からなる『千のプラトー』は章ごとに文体も異なっており、「文体がすべてだ」といったジェイムズ・ジョイスのことも想起させる。『ユリシーズ』が全体小説だといわれるならば、『千のプラトー』もまた全体小説としても読める著作なのだと思う。すくなくとも私は、哲学書というよりは文学書として本書を読んだ。ジャンル横断的で取り扱う対象の範囲も広大なため、より大きくより微細な解像度の高い世界像を提供してくれる、そして哲学にはじまり精神分析学や社会学等人文科学全般、文学の諸ジャンル、音楽、絵画、写真、映画などの芸術活動全般、生物学や物理学等の科学、そして数学、さまざまな領域からの細かく膨大な引用がほどこされ、作品内部から他世界への通路がいくつも開けている。全体的な主張とともにその文章自体からも運動の実践的感覚を受けとめることができる稀有な書物。

リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲 intermezzo なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞「である(エートル)」を押しつけるが、リゾームは接続詞「と……と……と……」を生地としている。この接続詞には動詞「である(エートル)」をゆさぶり根こぎにするのに十分な力がある。どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。すべてをご破算にすること、ゼロから出発あるいは再出発すること、一つの始まり、あるいは基盤を求めるということは、旅と運動についての誤った考え方(方法的、教育的、秘儀伝授的、象徴的……等の)を含んでいる。
(1「序――リゾーム」最終段落より)

読んで損はない作品。ただ、本文は上下二段組み571ページ、河出文庫だと全三冊で1200ページくらいあるので、積読本にしといて気長に消化するのが良いかもしれない。章ごとの独立性はかなり高いので、気が向いたところからつまみ食いしていくこともできる。知らない人が引用されていれば、そこで中断して別作品に逸れていくというのもあり。

千のプラトー :ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ,宇野 邦一,豊崎 光一|河出書房新社


ジル・ドゥルーズ
1925 -1995
フェリックス・ガタリ
1830 -1992

[訳者]
宇野邦一
小沢秋広
田中敏彦
豊崎光一
宮林寛
守中高明

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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