読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

草間彌生詩集『かくなる憂い』(而立書房 1989)と私の今日このごろ

2021年、11月を迎えた。

なんだかびっくりだ。

年の終わりを迎える準備なんかまったくできていないし、
新たな一年なんてものも、ぜんぜん視野に入ってこない。

仕事的には怒涛の10月後半があって、まだその余韻から抜け切れていないでいる。

久方ぶりに大規模プロジェクトの見積もりとサンプルプログラムを作るという、
緊張感あふれる高稼働の日々だった。
日付が変わるまで素面で調査していたなんてのは、いつ以来のことか。

ただでさえマイナーな言語(しかも複数コラボレーション)の
マニュアルになどどこにも載っていない動作の同定と、
これまたネット上のどこにも(英文サイトにも)載っていない回避策の案出を
自力でどうにかする。

とりあえずボロボロになりながらもどうにかなったところは、
まだ一応の主力を張れるという、存在確認にはなって、
金銭的報酬以外でも救われた感があるのが、
まあ自賛に限りなく近いが、収穫ではある。

19日のブランショの『マラルメ論』のブログ記事を書いてから、
29日までの10日間が、
休日もなにも関係なく、
依頼に対する対応可否を含めた見積を出すための探索探究の日々となった。
解決策を自分で持っていないと
執拗にうなされるのは経験しているので、
無理なら無理で万人が納得する道筋を描きあげる必要があった。

それでも仕事に関係しない活字を読んでいなければ、
精神と生活のバランスをとれない体質になっているので
なるべく摂取しやすく、
感想という形で出力もしやすい詩集を仕事に並行させて読んでいた。

ジョナス・メカス
フアン・ヘルマン。

読むのに適当なサイズの詩を書いてくれていた、ありがたい作家。

詩集以外では、平凡社、別冊太陽の『草間彌生 芸術の女王』(2014年)に助けられたところが大きい。

精神を圧迫しているであろう幻視と強迫観念に折り合いをつけるために必然的に創作されている作品群を目にすることで、
バランスなきバランスの世界を突き抜けている草間彌生のパワーを注入してもらっていた感じがする。

反復脅迫を抑え込んでしまうところまで行った意志的で華麗な反復。

めまいと陶酔の狭間に為された、この世からはみ出しそうな趣きのある仕事。

視界を遮り覆いつくすような水玉、性的でとめどない増殖にかかわる詰め物、切り刻みながら生まれ出る無限の網目、・・・

小学生のときのデッサンからまぎれもない才能を感じさせた作家の作品を順を追って見ていく中で、
作家自身が、表現のジャンルとして詩は別格ということを述べていた。
詩は、おそらく、美術作品と並んで、根底では全く偽りのない表現ということを、
主張したかったのではないかと私は思い、
その本心に触れることを目指して草間彌生詩集『かくなる憂い』も手をとってみることになった。

詩集は、
草間彌生の美術作品に比べれば、
圧倒的な個性や独自性を示しているものではない。

草間の水玉や触手や網目の創出が、どう言語化されているのかと期待すると、
そこに直接対応するようなものは見当たらない。

手の動きが発動する前後の精神の暗がりに迫ろうとする苦闘があらわれているだけだ。

だから、草間の詩は、彼女の美術作品のように、個々人のエンパワー化に資する作品とは成りえていない。

どちらかといえば、鬱屈の必然性を確認して終わる、冷たく凍えるような世界が草間の詩の世界だ。

1970年代から80年代、愛するパートナー、ジョゼフ・コーネルを亡くし、精神的な危機にもあったであろう時期の詩作品が本書『かくなる憂い』に収められている。

水玉も触手も網目もない、たんなる言葉。

そこには天才的芸術家ではない(が、天才的芸術家でもある)、ひとつの魂がほのめいている。
自分を肯定できないでいる痛ましい魂の喘ぎ。
後年、戦略もおおいにあろうが、「自分大好き」と公言する老年草間に至るまでの鬱屈した中年期の草間彌生の偽りなき内面。

何百と重なるわたしの描いた絵
タッチ色とパタアン 一つ一つ克明
見て闇 全く同一 複写されてしまう
まぶたの外側 目閉じた無音の中
映写している間断無切 押しよせ よせ
限りない繰り返し
その繰り返し 幻視不安
へとへと わたし打ちのめし
目 開ける 再度そこにいる化け物

 

「宙ぶらりん」部分

 

そこにある異界。馴染みない現象界。

耐えつつ攻める、この現われの世界。

詩の世界は、この世界をよくとらえきれてはいないがゆえに、落ちつきのない奥深さがあることを執拗にしめしているようだ。

 

草間彌生
1929 - 

 

参考:

uho360.hatenablog.com