読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

詩人としての堀田善衛 その1『別離と邂逅の歌』(作品執筆時期 1937-1945, 編纂草稿 1947, 集英社刊 2001)

遺稿整理から発見された、第一次戦後派作家というようにも分類される作家、堀田善衛の、主に戦中の20代に書かれた詩作品。死と隣り合わせに生きていた世界戦争の時代における、生々しい精神の記録としても、読み手の心に響いてくる詩作品。

大学時代から、のちに荒地派と呼ばれるグループ(鮎川信夫田村隆一など)とも、マチネ・ポエティクと呼ばれるグループ(中村真一郎加藤周一福永武彦など)とも、交流を持っていた堀田善衛の詩は、親炙していた中原中也を思わせるフレーズを含みながら、質の高い抒情性を刻印している。はじめて堀田善衛の詩を読んだ時には、どちらのグループの代表的な詩人の詩にも匹敵凌駕するような、清冽かつ凄烈な作品という印象を持った。怒りにも悲しみにも流されっぱなしになることのない、自分自身に対する批評眼が埋め込まれた、脱時代的な歴史性・現代性を持って、ずっと存在しつづけているような佇まいを持つ詩であり、集合体としての詩集であるようであった。

初読での驚きのひとつに、エピグラフに置かれた式子内親王の歌がある。

桐の葉も踏みわけがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど

式子内親王40代になる正治百首のうちの一首。岩波書店日本古典文学大系80『平安鎌倉私歌集』の久松潜一・國島章江校注「式子内親王集」の現代語訳(作品番号255)を引くと

桐の葉も踏みわけがたいほどの落葉がたまってしまった。必ずしも人を待つというのでもないからよいようなものの

となる。

「必ずしも人を待つというのでもない」といいながら待っているものがある。すでに到来してしまった詩想のようななにものかの再来を待つという期待の感覚と、なにものも来ないという寂寥の感覚を、ふたつながらに昇華してくれる出来事、もしくは、心の動きを待っている。詩語を磨き上げ、詠ってしまったあとの時間のすべてを賭けて名づけえぬなにかを待っている。なかば完了されたような状態で、決定的な変容を呼び込むようにして祈り、待っている。なにものかに対する切実な期待の地平を、詩語に触れ、詩語を呼びこむことで、読み手もひととき共有できる、祈りの時間。祈りのかたち。

後に『定家明月記私抄』を書く堀田善衛は、この時期すでに新古今の多くの歌人に触れていたなかで、あえて式子内親王の歌をエピグラフに登用した。その心持がいかなるものであったのかと、最初に動揺のようなものがあったことは、忘れないように書き残しておきたい。

解説文を書いている清水徹は、その解説文において、川端康成的な「死者の眼」「末期の眼」を通して、「すべてを無へと解消」する手続きのもとに見られた風景を歌っている、そういう詩作品が多く含まれるといい、堀田善衛はそのような詩作を自己批判し、無時間的な領域にとどまってしまう自身の詩作品と別れるための区切りとして青年期の未刊行作品を編集編纂したという見解をとる。

すべてを無へと解消させてしまう、それが願望の最終的な姿だった。
戦後の堀田さんは、まぎれもなく自分もまた否応無しに捉えられていたこうした思考様式を繰り返して糾弾した。「戦時中、戦場に出て殺される、殺すという問題を、最終的に解決してくれたものが」、結局は川端康成の語ったような「あの『末期の眼』論であったこと、あそこに一切を解決というよりも、人間と歴史に対する責任の念を解消するという、そういう点に辿りついたことを私は恐怖をもって思い出す」(堀田善衛『恐怖について』)
清水徹 《解説》「死の季節のうた」p190-191)

厳しい、厳しすぎるとも言えそうな自己批判ではないだろうか。七十年以上経たいまでも、十分に詩作品として鑑賞可能な自身の作品を凍結する意志の厳しさは、出会ったからには覚えておくべきだと思った。次のようなみずみずしい詩句とともに。

ふりかへる人の顔にはその人のすべてが現れる筈である。何ぜなら追憶は、あながち過古のことに限られるものではなく、人はそれと知らずに未来をも追憶するものである。死といふものは生の端にあるのではないのだから。永遠といふ古びた言葉も祈りといふ言葉も、死と生とは別物ではないことを物語つてゐるやうに、しずかになにかがあるのである。
(「断章」部分 p152)

クレーの天使のように、過去を見ながら未来に吹きとばされていくという状態から、あえて詩という飛翔可能な翼を削ぎ落し、地を歩む散文の世界に向かった堀田善衛の、天使的資質の豊かさを感じさせてくれる若い時代の作品。


堀田善衛
1918 - 1998
清水徹
1931 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com