読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

堀田善衞『若き詩人たちの肖像』(新潮社 1968, 集英社文庫 1977)

1936年(昭和11年)の二・二六事件前夜から1943年(昭和18年)11月15日召集の召集令状が届くまでの予科を含めて大学生活約8年間を描いた自伝的長編小説。

父の代で家が没落してしまった北陸の廻船問屋に生まれ育ち、北陸旧家に受け継がれていた奥深い文化と、中学時に身を寄せたカリフォルニア出身のカソリックの司祭一家との生活で身につけた語学や西洋文化に対する感性をもって、治安維持法統制下の東京で、抑圧されながらも緊迫感があると同時に無頼でもある青春期を駆け抜けた堀田善衞の分身に出会える作品。

後の荒地派の詩人たち、マチネ・ポエティックの詩人たちとの交流は、濃密で、しかもバラエティに富んでいる。誰もが大学に行くようになったのっぺりした今の時代とは異なる、個性の粒立ちが際立っているようにも見える、かつて日本にあった一時代一都市の空気感が、戦時下の息苦しさとそれに対抗する激情とともに表現されている。

時代の息苦しさをかかえながら語られる青年の言動が、おぞましい時代の背景にもかかわらず風通しがよいと感じられる要因は、おそらく、堀田善衞の根底に流れる文化の豊かさと、その複数に渡る文化をそれぞれ客観視しうる比較相対化の経路を持った人の天使的視点によるものと思われる。人間界にあって天使的視点を持ってしまったことの僥倖と苦痛の共存が、おそらく堀田善衞の創作のエンジンになっているのだろう。それは選ばれてしまったものの羨ましくもあるが過酷なひとつの生の在り様なのだと思う。

天使と人間との複眼。肉体を持った若い精神の桎梏と奔放さ。

死んでしまった知人友人がいるなかで、生き延びてしまったものの役割として、極力虚飾を廃したある時代の時空間を、言葉で再構築するという試みが、本作の狙いなのであろうと想像する。

青春は、一つのばくちである。文学的に、まだまだ水脈がはっきりしていないところへ、突如として巨大なドストエフスキートルストイがまともに入って来たりしたら、そこにどういう破壊作業が行われるか。青春は一つのばくちである。

「青春は一つのばくちである」。ばくちであれば、大概は負けるのが筋というものである。負けを認めてきれいに撤退できないのも、ばくちの辿る道筋である。そこを自己批判を交えつつ、時代状況を批判的かつ相対的に描いているところに、本書『若き詩人たちの肖像』の希少性と普遍性が宿っている。

自分にも冷酷に還ってくる批評眼とともにいる人としての「堀田善衞」を体感するに相応しい骨太の一冊。

 

books.shueisha.co.jp

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【付箋箇所 新潮社版】
17, 20, 35, 43, 99, 110, 132,137, 145, 151, 154, 155, 163, 168, 171, 174, 214, 221, 263, 281, 294, 310, 314, 325, 346

堀田善衞
1918 - 1998


参考:

uho360.hatenablog.com

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