読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

日夏耿之介『唐山感情集』(彌生書房 1959, 講談社文芸文庫 2018) 天生我材必有用

日夏耿之介の手になる漢詩の訳詩アンソロジー。全63篇。

松岡正剛とドミニク・チェンの対談本『謎床 思考が発酵する編集術』(晶文社 2017)を読んで、いたく感心する一方、自分の卑小さにへこんでいたところ、なにか癒しの本をと思い、手にした一冊。

欲しても届かない世界というものはあり、そのことを認識すると淋しさが募る。そんなときには、端から自分が通用しない世界に接して、より単純に感心すると、不思議なもので、心は幾分か持ち直す。ふりかえるとへこんだ時には美術の本に頼ることが多いのだけれど、今回は漢詩の訳詩集というか、日夏耿之介という特異な人物にすがったという感じがする。最近は、西脇順三郎リルケの詩を読んでいるところなので、詩という同一のジャンルのほうが読むことの連続性もでて、いつもよりよく読めるかもしれないという欲もあっての選択となった。

日夏耿之介は大正時代から活躍する詩人で英文学者。代表的な訳業としてはワイルドの『サロメ』やエドガー・アラン・ポーの『大鴉』がある。ポーの"Nevermore"は「またとなけめ」と訳していて、雰囲気的には漢語の多い硬質かつ幽界めいた訳文が多いのだが、本書の漢詩の日本語訳では、日本伝統の文芸楽曲の匂いがかおる訳文になっている。

講談社文芸文庫版のカバー裏文の煽り文句にはこうある。

酒と多情多恨の憂いを述べる漢詩の風韻を、やまとことばの嫋々たる姿に移し替え、さらに独自かつ自在の境地に遊ぶ。

読点付きの原文と、日夏耿之介の手になる通常とは若干異なる読み下し文、そして日本の座敷文化の薫り漂う日本語訳の三部構成で漢詩が紹介される。訳注はなし、解説もなし。純粋に作品の味わいだけで勝負してくれている。そして、日夏耿之介の訳詩だからこそ明瞭となる、漢詩の詠う情景がある。

ねてゐると (宋 周邦彦)

詠月

眠月影穿窓白玉錢
無人弄移過枕凾邊
※実際は眠、錢、弄、邊の後に読点あり

眠、月影窓を穿つ白玉の銭、
人の弄するなし、移過す枕凾のほとり。

ねてゐると
月かげ窓にさしこんで
白玉(はくぎょく)の銭のかたちをゑがきだす、
人なんとも
しやしない、
かげは移り
まくら辺(べ)にくる。

なんでもないような情景だが、「無人弄」が「人の弄するなし」になって、さらに「人なんとも/しやしない、」と変換されることで、より人間くさく愛おしい空気感が付加されているように感じる。人は眠っていて月には何もしていないという詩だと思うが、ひらがなの「ねてゐると」だと横になってまんじりともせず何もしないで月を見ている人がいるような情景を思い浮かべてしまう。誤読なのだろうが、そちらの方が心に残る。

日夏耿之介の訳にうながされて、いろいろ感じるところの多い漢詩アンソロジーであった。63篇中の4篇を占める李白の詩と訳詩はどれも良く、数回読み返すほどだった。

天生我材必有用

天我を生む、材必ず用有り

天がこのわしの材(きりょう)を生んだのは、是非用があるからだとよ

李白「将進酒」より)

私にはどんな用があるのだろう。

西脇順三郎リルケは、世にある事物の名を呼ぶためだというようなことを詩に残してくれていた。日中の生活の資を得るためのシステム屋としての私は、関数やプロシージャやメソッドの名を正しく呼ぶことが要求されていて、それ以外の時間の多くは読んだ本の著者の名と作品の名をブログで呼ぶことに費やされている。世にある事物の名を呼んではいるのだが、なんだか仕事でも余暇でも心細い声しか発していないようでちょっと辛い。もっと芯のある声になれたらなあと、「わしの材」について思いを残しつつ本書を離れる。

 

日夏耿之介
1890 - 1971