読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

新潮社 日本詩人全集24『金子光晴・草野心平』(新潮社 1967)

戦前戦中戦後を貫いて日本語の詩に身を捧げた草野心平金子光晴カップリング。

強烈。

詩作品だけでも強烈なのだが、貧乏ななかで飲み食い生活しているところの人物としての二人の精神状況はさらに強烈。一緒に生活しろと言われたら、かなりつらい人たちであることは共通している。

無頼に関しての風評は、世間的には金子光晴のほうが広まっていると思うが、本詩選集を読んだところでは、草野心平のほうが身体的かつ世俗的な暴力性の側面は強い。情に厚く、情にもろく、沸点の低い直情の度に翻弄される、酒飲み草野心平。情の沸点は低いのだが、そこから沸騰した詩の言葉は、非常なまでに即物的でありながら、ゆるぎない思想性をもっているようで、不思議な魅力に満ちている。生々しい詩を書く詩人として金子光晴を位置づけていたものにとっては、本書は、詩人金子光晴がより観念的で抽象的な世界で勝負している人なのだと位置づけなおすように再考を促す一冊であった。

 

金子光晴

およそ、疲労(つかれ)より美しい感覚はない。
おゝ、硝子壜の中の倦(ものう)い容積を眺めよ!
そこに、非人情な水の深潭(しんたん)をみよ!

人生は花の如く淋しい海の流転である。
破れ易い水脈(みお)の嘆き、
水のなかの水の旅立ち……。
(1925年-30歳時-刊『水の流浪』「水の流浪」部分)

 

草野心平

痛みもなくなった重たい悔いが。
喉までつまり。
太い鉛の丸太のように。
寝床のなかに。

   眠るばかりの肉体と。
   昼のない夜ばっかりと。
   
   与えられない睡眠の。
   白ちゃけてゆく闇のなかで。
   
声をたてずに哭くなき声がきこるような。傷口の酸っぱい辛(から)さをなめずるような。凄惨と野暴のはての……。丸太ん棒。
(1951年-48歳時-刊『天』「悔恨」部分)

 

金子光晴の詩の冒頭には西洋の先行世代の作品からのエピグラフが頻繁に現われ、生臭さをまとったブキッシュな世界観が展開されているのに対し、草野心平詩では観念的世界が詠われていても、基本にある身体や感官の存在感がどんな観念や抽象にもひけをとらずに残存する。書斎的ではない、名称と記号の遊行の時空間が開かれている。「南無阿弥陀仏」の名号を唱えずとも、浄土を観想することもなく、現世に開かれている官能至福と煩悩四苦のないまぜの世界が開示されている。

エッセイ「わが青春の記」に書かれているような、貧乏と喧騒と苛立ちと無惨さがないまぜのジグザクの本人も二度は経験したくないという人生はとても誉められたものではないが、昭和初期の貧困と将来への希望を失わないなかでの思索と詩作には、二十一世紀のいまにはない信念の確かさがあるように思った。詩集の売り上げで前途を切りひらこうという限りなく妄想に近い考えが、それほど批判を受けることもなく人の想いに上るような時期の信念ではあるが、そのゆるぎなさ、詩に賭ける想いの深さは驚くべきものがある。求めても得られぬ職業という時代状況もあったであろうが、そのなかでも来たるべき未来に向けて自分を言語表現領域に傾注させつづけた詩心には頭が下がる。よくもそこまでのことが可能であったという世俗的な感想にすぎないのだが、交流のあった萩原朔太郎含め、芸術優位の姿勢を貫く浮浪で不労に傾く生涯には唖然とせざるをえない。それだからこそ読むに値する作家であるということは頭ではわかるのだが、実際には憧れである反面、恐怖だ。


草野心平
1903 - 1988
金子光晴
1895 - 1975

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com