読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

<未決のまま>激動の16世紀フランスの中枢領域に生きた人、モンテーニュの伝記小説 堀田善衛『ミシェル城館の人』(集英社) 第一部「争乱の時代」(1991), 第二部「自然 理性 運命」(1992), 第三部「精神の祝祭」(1994)

モンテーニュの「エセー」と伝記小説である『ミシェル城館の人』のどちらを先に読むべきかというと、モンテーニュの「エセー」を先に読んでおいた方が『ミシェル城館の人』も「エセー」自体も楽しめると私は思う。

理由としては、「エセー」では語られていないモンテーニュの生きた時代の姿が、「エセー」の突出して読み応えのある部分の引用とないまぜになりながら、「エセー」とは異なる伝記的資料や歴史的資料から小説家堀田善衛によって魅力的に再構成されているので、『ミシェル城館の人』では書く人としてのモンテーニュがより俯瞰的な位置から読み取られていて、直に「エセー」にあたる場合の見通しの利かなさというか、文字を介して直接やりとりする時の読み取る側の自分の鈍さが払拭されているので、あらためて自分自身で「エセー」を読もうとすると、読書という時間につきまとうもっさり感に耐えられない可能性が出てきてしまう。「エセー」が『ミシェル城館の人』の資料となってしまう可能性も否定できないのだが、幸いにして人間には忘却の能力が備わっているので、慌てなければ、いずれにせよ読むべきものには読むタイミングが訪れてきてくれる。いい具合に忘れたうえでどちらにも向き合い直せばいいだけだ。

この人の五十九歳と七カ月の生涯を距離をおいて眺めてみるとき、その生涯は、彼の『エセー』に表面的に見られる雑然混然たる有様とは正反対に、いかにも整然として、かつは豊かに充実したものに思われるのであった。混乱もきわまった、流血の宗教戦争のさ中に、その生涯の大部分は送られたのであったが、幸運にもその影響は、まず最小限に制止されていた。そのことだけでも当時としては稀な生涯であったと言って過言ではないであろう。
(第三部『精神の祝祭』「エピローグ」より)

モンテーニュ自身は著作「エセー」において、政治的な実際や、家政における実際をつぶさに語ることはない。その語られなかった部分を堀田善衛は掘り起こし、ありのままの雑然とした、それでいながら偽りなく主義を貫いたモンテーニュの姿を、ドロドロの時代背景とともに描き出している。モンテーニュの一般的な解説本にはない歴史の生々しさを追体験しつつ、モンテーニュの思考の核心に触れることに案内される貴重な作品。もう少し長く、こだわり抜いて書かれても良かったと思わせ良書であった。

【付箋箇所(単行本)】
第一部「争乱の時代」(1911)
46, 62, 78, 157, 158, 164, 298, 350
第二部「自然 理性 運命」(1992)
9, 18, 39, 54, 150, 162, 177, 198, 219, 251, 258, 269, 282, 297, 302, 308, 315, 326, 360, 366, 374, 396
第三部「精神の祝祭」(1994)
18, 62, 65, 67, 99, 102, 187, 191, 214, 224, 229, 245, 255, 259, 275, 309, s313, 318, s318, 327, 332, 334, s340, 344, 357

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ミシェル・ド・モンテーニュ
1533 - 1592
堀田善衛
1918 - 1998

 

参考:

 

uho360.hatenablog.com