読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宇野邦一訳 サミュエル・ベケット『どんなふう』(原著 1961, 河出書房新社 2022)+片山昇訳『事の次第』(白水社 2016)

小説としては前期三部作『モロイ』(1951)『マロウンは死ぬ』(1951)『名づけえぬもの』(1961)に次ぐストーリー解体後の後期モノローグ作品の端緒となる最後の長篇といえる作品。もっとも読まれ、もっとも知られてもいるだろう戯曲『ゴドーを待ちながら』(1952)にも多くの共通性を持つ、人間精神の憑代としての言語の終わりなき反復の過剰と貧困を即物的に提示する、アクロバティックなフィクションである。

ベケット自身によって1964年には"How it is"として英訳されてもいる本作品は、日本語訳としては2016年に新装再刊された片山昇訳『事の次第』(1972)に次いでの訳業となる。前期三部作新訳後にさらにベケットに踏み込んだ様子が本書の訳者あとがきからも分かる老年を迎えてからの挑戦的な仕事なのであろうと感じた。本訳書通読後の感想というか勝手な希望としては、関西弁を筆頭に日本にまだ残るいづれかの地方の方言での新訳で読んでみたいという気持ちが湧いてきた。「どないやねん」とかになるのだろうか。究極のシリアスとパロディは分離しがたいというところを標準語以外でも感じてみたいと思わせる奇妙な作品であり翻訳であった。

 

宇野邦一訳】

これらすべての言葉 私はそれを繰り返す あいかわらず引用する 犠牲者 虐待者 内緒話 繰り返す 引用する 私と他人たち これらすべてのひどすぎる言葉 私はあいかわらず聞こえるとおりに言う あいかわらずつぶやく 泥にむかって 一人 果てなし 私たちにふさわしく

【片山昇訳】

これらすべての言葉繰り返して言う引用はなお続く被害者加害者内緒話繰り返す引用わたしその他すべてこれらの言葉は強すぎるふたたび聞いたとおりにわたしはふたたび語るふたたび泥にささやくただ無限だけがわたしたちに釣り合っている

 

語間のスペースがない片山昇訳は、訳語の選択も硬質で速度も密度も緊張を感じさせるがために受容にはより多くのエネルギーが必要で、作品との距離感は共犯者的なものになる傾向がある。それと比べて宇野邦一の新訳は訳語そのものは受け取りやすく、訳者の解釈をある程度距離をおいて鑑賞享受することが可能になっている。宇野邦一の新訳のほうが、余分かもしれない読みの幅(関西語訳だとどうだろうか)を許容してくれているような気はしているが、どちらか一方ではなく、複数訳があることを喜びたい。

本作品の背景として召喚されているのはダンテ『神曲』地獄篇第七歌の後半部、憤怒に敗れた者の魂が苛まれるステュクスという名の泥沼地獄。地獄の様相が現実世界と重なり離れようもないところにベケットの関心は集中しているようだ。

どこへ目をやっても泡(あぶく)が見える。
泥土に埋まった連中の繰り言だ、『俺たちはわびしかった、
 日のあたる楽しげなうるわしい大気の中にいても
 心中に憤懣がもやもやとしていた。
いまでも黒い泥の中で俺たちはもの憂い』
 この御聖歌を喉笛のあたりでがらがらやっている、
 連中ははっきりと言葉に出して言うことができないのだ
平川祐弘訳『神曲』地獄篇第七歌より)

泥にまみれ屑のなかに生きながら生まれつづける言葉を観測するように聞いている主人公たる私は、物語でもある歴史からは見捨てられてるようでいて、それでも明確に歴史的な存在で、缶詰と缶切りが当たり前のように存在する19世紀後半以降の地獄に相似した世界を活動領域としている。ベケットの伝記的な事実と照らし合わせるならば、第二次世界大戦時の対ナチス抵抗運動の際に余儀なくされた長い潜伏期間の体験が発想のベースになっていると考えられる。体質的には鬱病を発症しやすい自身の精神状態と、個人を押しつぶすような戦時下の状況が、戦争終結後も人の心を解放することなく縛り付け、かつて見られなかった精神と言語の状況が析出されていくこととなったのではないだろうか。

アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というユダヤ系ドイツ人アドルノの言葉の裏面として、パウル・ツェランの詩とともに「アウシュビッツ以後、詩以外を書くことは野蛮だ」ともいえる言語の極限状態を示すことに、積極的に関わりはじめるきっかけになった作品ではなかろうかと、個人的には考えている。

ノローグは、先行する他者の言葉がなければつづきはしない。

つづいて欲しくはない解決のない内省の言葉も完全に否定する対象でもない。

生存の痛ましさを訴えながら、それでもパロディとして現在過去未来を通して反復する存在の肯定から離れられない、20世紀最高の知性の居心地の悪さに、享受者側としても半身で共感するという態度が求められているのではないだろうか。

孤独の極致を示しているように見えながら、師であるジョイスの『ユリシーズ』のパロディであるとも感じさせるところ、自身の前後の作品に通じているところ、ダンテをはじめとして先行作品に多くを追っているところなど、必ずしも孤立孤高をよしとする作品ではないことは、参入障壁を下げるためにも明示しておきたい。

 

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サミュエル・ベケット
1906 - 1989
宇野邦一
1948 - 
片山昇
1928 -