読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

北川透『傳奇集』(思潮社 2022)

いまの日本の現代詩の領域では80歳を超えた高齢の詩人たちの活動がよく目に入ってくる。谷川俊太郎高橋睦郎吉増剛造ほか、かなりの実力者が名を連ねる。本書の北川透もそのなかの一人で、刊行時は86歳、収録作の初出は78歳から83歳まで刊行していた詩と評論の個人誌への掲載が多い。

よほど書きたいものがあるのだろうという予想をもって読みはじめてみると、ことば遊びに属するような意外に軽い幻想譚のようなものが多い。また五七五の俳句定型を借りながら韻を積みあげて一篇の詩としているケースもかなり目立つ。飄逸さを装った諧謔の批判精神を読み取るべきなのかもしれないが、それを望んでいるようなおもてだっての表現はそれほど見て取れなかったので、単純に表現することのバイタリティを受け止めることがいいのだろうと思い読みすすめた。

なかにはちょっと哲学的で異質な感じの詩篇がいくつかあって、私個人としては最終的にはそちらの方に心が動いた。「脱出考」「天罰」「石変化」の三篇がそれである。

あの雲雀にとって檻は天空なのか、地上なのか。雲雀にどのような脱出が可能なのか。それを自覚しようとしまいと、檻から脱出すること、それは生きることだから終わりがない。鳥として生まれたら、鳥という存在が檻であり、自由なのだ。
(「脱出考」より)

ひるがえって、人間は、人間という存在が檻であるとともに自由である、というところだが、人間はもうちょっと複雑なところがある。画家は視覚表現を担う画家であることが檻であり自由、音楽家は音響表現を担う音楽家であることが檻であり自由、詩人は言語表現を担う詩人であることが檻であり自由、と生まれながらの才能も有ろうが選択し進む分野によって桎梏も自由の味わいも変わってくる。専門とするものが特段なくても、人間としての桎梏や自由はあるのだろうけれど、活動の能力の優れた人を見ると羨ましいと思ってしまうのは、人間という種ほ個体の偏差が出やすく環境的には目立ちやすいところがありそうなので、致し方ないところではある。枯れない表現の能力と手段を持った詩人の存在は、たしかに羨ましくあった。そう思うのが私の檻であり自由の現在なのだろう。

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北川透
1935 -