読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

企画・編集 小柳玲子『夢人館8 リチャード・ダット』(岩崎美術社 1993)

1842年、雇われ画家として中東を旅行していた25歳のリチャード・ダットは、猛暑の中で仕事をし過ぎて日射病となるとともに、その後殺人をおこすまでになる精神病に囚われはじめた。自分はエジプトの神、オシリスの使者であり、悪魔に常に付け狙われているという妄想や幻聴に悩まされるようになり、その兆候を認めて観察を続けていた自分の父を、悪魔が変装していると思い込み、刺殺してしまう。国外への逃亡を図るも、妄想は治まらず、たまたまそばに居合わせた人物を殺そうとしたところで逮捕拘束される。それが1943年、リチャード・ダット26歳の時。
以後、狂人として罪には問われず、1886年68歳で死去するまで精神病院のなかで過ごした。絵は治療というよりも、専門的に修業を受けた人物の創作として続けられた作業であったようだ。まだ精神病が発症していない20代前半の作風と連続性があり、一人の作家の一貫した特色が見てとれる。特に作品の多くを占める点描を主体とした水彩画にその傾向はよくあらわれている。
風景画でも人物画でも、廃墟ではないが、時間が止まったかあるいは時間から取り残された瞬間が描かれている一種白昼夢のような世界で、まるで褪色してしまっているかのように抑えられた主張のすくない色彩の点描で、非常に緻密に描き込まれていて、すべてが塵埃と化してしまいそうな佇まいがある。水でさえバラバラに崩れさってしまうような、脆く危険なバランスをもったものとして表現されている。人物の多くは心ここにあらずで、現実には存在しないあらぬなにものかを見てしまっているようなのである。精神病による強迫観念の凶暴かつ執拗な発露といったものは感じられず、どちらかというと離人的で非現実的な空虚な空気が流れているようである。
生涯に200点程度作成されたといわれる作品の中から本書には60点の作品が収められている。そのなかでリチャード・ダットを有名にしているのはテート・ギャラリーに収蔵されている2点の油彩画。『お伽の樵の入神の一撃』と『対立・オベロンとティターニア』の二作品。いずれも妖精の世界を主題にしたもので、画面を埋め尽くすすべての事物が細密に同じ強度で描かれているために、特異な幻想性をまとっている。テラテラとした光沢をもっているけれども、すべてがドライフルーツのように乾いていて、何かのきっかけで瓦礫となって手がつけられなくなるような危うさも感じさせる。妖精が見た世界、あるいは昆虫の眼で見た世界のようで、鑑賞しているこちら側も、人間の感覚から少しズラされる奇妙さを味わうことになる。
『対立・オベロンとティターニア』は61×75cmの作品で制作に4年をかけている。『お伽の樵の入神の一撃』は54×39.4cmの作品で制作年数9年で未完。いずれもそれほど大きくない作品にも関わらず、膨大な時間と手作業が注ぎ込まれている。破綻していないのが逆に不思議なくらいに物がつめ込まれていてそれでいて、同時に空虚であるという不思議な世界に出会える。職業画家としてではなく、精神病院の入院患者として、経済的な側面から離脱していたところが、緻密で奇跡的な作品を創造させたといえるかもしれない。

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リチャード・ダッド
1817 - 1886
小柳玲子
1935 - 2022