読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

藪内清訳注『墨子』(平凡社 東洋文庫599 1996)

ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)が墨子偽書という形で『転換の書 メ・ティ』(遺稿原著 1965, 績文堂 2004 訳:石黒英男+内藤猛)を書いたと知ったことと、柄谷行人の最新著作『力と交換様式』(岩波書店 2022)の第Ⅰ部第4章「交換様式Dと力」8「中国の諸子百家」において現代においては孔子老子の思想とは異なり歴史のなかでいったんは消されてしまった墨子の思想(特に「兼愛」の思想)を取り上げているところから、墨子全体像を体感できる全訳本の本書を読んでみた。原文、書き下し文なしの現代語訳からのみなる著作であるため、専門的には扱いに注意が必要である旨の情報がネット上には出ているが、通読してみたところでは、素人が墨子の概要を知るためにはそれほど神経質にならなくてもいい極端な偏向のない訳業であり解説であると思えた。

柄谷行人の『力と交換様式』における墨子の記述は3項弱に過ぎないが、孔子にも老子にもない思想と、それゆえに歴史上の弾圧の後に復活しずらかった経緯を簡潔に記している。それぞれの国家の統治方針に取り込まれることに抗うような、「博愛」とは同一視できない「兼愛」、観念的な平和主義に陥らない墨子の「非攻」と国家の論理に回収されてしまう「非戦」「自衛」の違いについて触れられているが、必ずしも分かりやすいとは言えない。孔子老子墨子を読んでも、どれがいいかは人それぞれのような気がするが、『力と交換様式』において、忘れられている墨子を取り上げる柄谷行人の意図もなんとなく分かる。抗争耐えない現実の世の中で、個人と集団が、いかに振る舞い争いを避けるべきかという視点から、参照すべきテクストとして精査していることが伺える。ただ、「博愛」と「兼愛」の違いは分かりずらい。『墨子』の訳注者藪内清は「博愛」と「兼愛」とは同一だと言っているので、それぞれの考えを分けて読み込んで理解する必要がある。

かつては孔子の教えである儒教ともそれほど対立してはいなかったと言われる墨子の教えであるが、後代における思想展開と派閥争いのなかで対立が激化するようになる。孔子墨子間では礼拝に関する儀礼「礼楽」の扱いが対照的で、現代的な問題にも大きく関わるところである。孔子は祖先礼拝を重要視し近親者の死後長期間に渡り公的活動を控えたのに対して、墨子の教えでは死者を弔った後にはすみやかに公的活動に復帰して生の世界に仕えるべしと説かれる。儒教の祖先礼拝儀式慣習重視の教えは、型を重視することで、型に収まるようなありうべき情動を導くという効能が生まれることを期待しているものであり、それはそれで存在価値を持つ。祖先礼拝に関する墨子の考えは、死んでしまった者に対して悲しみに淫することなく、悲しみと替えられない過去とに区切りをつけ、生者の世界で新たな活動を開始再開することを推奨する。高齢化が進む現代日本の社会においては、80過ぎの自分の親を死んでから数年敬うよりも、生きているうちにできるだけ孝行して、死んだら自分自身の身の振り方を考えることを薦める思想のほうがマッチしている。論語が良いという世間的な声も大きいなかで、墨子のより現世的で世俗的な思考に親近感を持つのは、21世紀日本の傾向であるのかもしれない。死者を敬うことで生者の世界をどうこうできるような人口構成には、いま時点の日本はなっていない。

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【目次】
親士
修身
所染
法儀
七患
辭過
三辯
尚賢上
尚賢中
尚賢下
尚同上
尚同中
尚同下
兼愛上
兼愛中
兼愛下
非攻
非攻
非攻
節用上
節用中
節用下(原欠)
節葬上(原欠)
節葬中(原欠)
節葬下
天志上
天志中
天志下
明鬼上(原欠)
明鬼中(原欠)
明鬼下
非楽上
非楽中(原欠)
非楽下(原欠)
非命上
非命中
非命下
非儒上(原欠)
非儒下
経上
経下
経説上
経説下
大取
小取
耕柱
貴義
公孟
魯問
公輸
備城門
備高臨
備梯
備水
備突
備穴
備蛾傅
迎敵祠
旗幟
號令
雑守

【付箋箇所】
14, 30, 81, 88, 92, 136, 147, 152, 153, 159, 173, 196, 254, 283, 292, 298, 312, 313, 316, 318, 320

藪内清
1906 - 2000