読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ミシェル・レリス『ピカソ・ジャコメッティ・ベイコン』(編訳:岡谷公二 人文書院 1999)

写真の発明と普及により絵画が外観の忠実な再現を期待されなくなり絵画独自の表現を追求していく時代に、それぞれ独自のリアリティーを追求し、表現への真摯さと相反することのないユーモアと残酷の感覚をともに持ち続けた三人の偉大な画家、ピカソジャコメッティ・ベイコン。その三人それぞれと交流のあった特異な表現者である詩人ミシェル・レリスが親愛の情を込めて綴った作家論の集成。それぞれの作家の作品が発する強烈な存在感について、自身の密度の濃い文章で跡づけていくように表現している。とりわけ印象的なのはピカソのユーモアの感覚と芸術作品へのユーモアの導入についてチャップリンの名を挙げながら称賛しているところで、この指摘によってピカソの作品を見る私の目は少し変わったような気がする。
※おそらく原文に忠実な翻訳で、ダッシュによる補足説明などが多く、すこし注意しながら読まないと文意がとりづらいところもあるちょっと九会のある文章だった。

こちらは作家堀江敏幸による書評 

allreviews.jp


出版社のサイト:

 

www.jimbunshoin.co.jp

 

【付箋箇所】
22, 33, 42, 61, 68, 72, 77, 78, 91, 106, 136, 152, 161, 162, 179, 182, 182, 197, 200, 220, 228241, 257

ミシェル・レリス
1901 - 1990

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パブロ・ピカソ
1881 - 1973

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アルベルト・ジャコメッティ
1901 - 1966

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フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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イェルク・ツィンマーマン『フランシス・ベイコン《磔刑》 暴力的な現実にたいする新しい見方』(原著 1986, 訳:五十嵐蕗子+五十嵐賢一 三元社 シリーズ(作品とコンテクスト) 2006)

フランシス・ベイコンの代表作《磔刑》(1965年, ミュンヘン)から作家の全体像に迫る一冊。ひとつの作品に焦点を決めて作家の本質に迫っていく著作は刺激的で学習効率もよく、概説書や入門書の次に読むものとして貴重な位置を占めている。実際に接したところでは商品としての間口が広いとは言えないので、商売上一般的には限定された顧客層向けの隙間商品で、気に入ってもらえたら同じシリーズ作品も認めたうえで読んてもらいたいというような意志が感じ取れる。

シリーズ本体定価は2200円。

基本的には、学校を含めた公共の図書館から評価されて広く長く読者を待つスタイルの本ではないかと思う。
※私も図書館からの利用者のひとりだが、公共の図書館に所蔵されている著作が人畜無害のものとばかりは言えず、かえって埋もれているような状態で生きながらえている不穏な熱源である可能性も高確率で存在している。

「ここに示されているのは、むしろ宗教と人間性の終焉である」

しかしながらそれを示す対象は人間であり人間性でしかないということも創り手であるフランシス・ベイコンは熟知しているということをも教えてくれる一冊となっている。

 

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【目次】
第1章 ぼくは何も語らない
第2章 きわめて統一のとれた明快な背景
第3章 すばらしく便利な架台
第4章 筆のひと掃きの行方
第5章 生か死かは、投げられたコインの裏表3
第6章 腕のまわりの赤
第7章 口の形はどのように変質してゆくのか
第8章 何かをするでもなく
第9章 絶対絵画へのアプローチ
第10章 人間の行動のひと幕
第11章 強調され、かつ孤立した位置
第12章 ストーリーを語らずに多くの人物を描く
第13章 くりかえし新しく創出されるリアリズム
訳者解説
(表題作品のカラー折込図版を巻末に収録)


【付箋箇所】
2, 16, 60, 72, 106

フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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イェルク・ツィンマーマン
1946 - 

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デイヴィッド・シルヴェスター『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(原著, 訳:小林等 ちくま学芸文庫 2018)

ジャコメッティのモデルをつとめ作家論を書いたことでも知られるイギリスの美術評論家・キュレーターであるデイヴィッド・シルヴェスターによるフランシス・ベイコンへの20年を超えるインタヴュー集成の書。訳者あとがきからも著者まえがきからも分かることだが録音テープをそのまま起こしたものではなく、著者による編集がかなり施された読み物として仕上がっている。そこには画家ベイコンの意向もだいぶ取り入れられているとおぼしく、絵画に図解的な物語性を求める姿勢を一貫して拒否する制作方針が常に強調されている。共同生活もしたことがあるほどの深い関係性を持った二人のあいだでのインタビュー記事なので、無批判かつ全面的に受け入れることには注意したほうがよいとは思えるが、20年以上にわたってベイコンが示しておきたかったであろう基本軸がぶれなく伝えられているところはしっかりと押さえておくべきところであると思う。ドゥルーズによって引用されている印象はあまり残ってはいないのだが、画家フランシス・ベイコンを語る時には頻繁に引用参照されている基本的文献である。

日本語版のちくま学芸文庫は、A6判文庫サイズは(105mm×148mm)で掲載図版は基本的にモノクロームではあるのだが、収録数は118点(参考他者図版含む)とかなり豊富で、しかもベイコンの基本的な表現形式は三幅対(トリプティック)であるため、比較的流通しているベイコンの画集よりもベイコンの作品をより広く知ることができる。現物のサイズ感や物質感や色彩は伝わらなくても、神経組織に直接訴えかけることを目指しているベイコンの志向性はかなりよく感じ取れる書物になっている。小さくて色彩のない図版であるがために、連続して図版のみを見返したりしているときにはかえって描かれているものの形態が持つ写実を超えた生命体としてのリアリティに接続されるような感覚が起こってもくる。

芸術におけるリアリティーとは、なにか非常に作為的なものであって、芸術家が再構築しなくてはならないものだと思います。そうでないと、単になにかをそのまま描き写した絵(イラストレーション)になってしまうでしょう。創造性がとても乏しいのです。
(インタヴュー8(1982年)より)

写真という技術が一般大衆層にも広まった社会での二次元芸術のあり方で、しかも抽象芸術や絵画デザイン化に向かわない具象表現の方向性を示し得た作家ならではの活力あふれる発言集。

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【目次】
インタヴュー1(1962年)写実主義の崖っぷちを歩いているような絵を描きたいのです。
インタヴュー2(1966年)私のかねてからの願いは、大勢の人物が登場するにもかかわらず物語を伴わない絵を描きたいということなのです。
インタヴュー3(1971・73年)重要なのは隔たりです。絵が見る者から遠ざけられることです。
インタヴュー4(1974年)不公正は人生の本質だと思います。
インタヴュー5(1975年)自分は今ここにいるけど、存在しているのはほんの一瞬であって、壁にとまっている蠅のようにたちまちはたかれてしまうのだ、という事実をです。
インタヴュー6(1979年)「明日が来ては去り、また明日が来ては去り、そしてまた明日が来る」
インタヴュー7(1979年)偶然によって有機的な絵の土台が形成されると、自分の批評的な側面が活動を始め、その土台をさらに発展させていけるのです。
インタヴュー8(1982年)絵画にはもう自然主義的なリアリズムなどありえないのですから、新たなリアリズムを創造して、古いリアリズムを洗い流し、神経組織に直接伝わるようなものにするべきなのです。
インタヴュー9(1984年)芸術作品が残酷に見える

【付箋箇所】
7, 9, 13, 16, 18, 22, 24, 28, 30, 32, 33, 41, 44, 46, 58, 60, 62, 66, 70, 78, 80, 81, 82, 84, 88, 94, 112, 115, 127, 145, 152, 160, 168, 194, 201, 206, 217, 237, 240, 242, 246, 248, 271, 282

フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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デイヴィッド・シルヴェスター
1924 - 2001

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小林等
1959 - 

サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』(原著 1980, 1991 訳:海老坂武 光文社古典新訳文庫 2019)

希望が見いだせたらいいなぁと思って手に取った著作。

サルトル最晩年の言葉。

対談相手のベニ・レヴィは毛派のプロレタリア左派指導者で、1973年に68歳で盲目となったサルトルの秘書として1974年から思考の相手をつとめた人物。

本対談はレヴィ主導で、サルトルの生涯を批判的に問い詰めていくところを、サルトルが愚直に折れることなく回答していくという体裁のもの。

愛なき批判者とも言えるようなレヴィの態度に対して、自己批判を促されているところには避けずに向き合い、そこからさらに自由と友愛による倫理的な人間の営みに希望を見出そうとしている姿勢には頭が下がる思いがした。
※発想的にはカントの『判断力批判』の終結部に近い感じを持った。

身体的には大変な状況であり、思考する環境としても厳しすぎる状況にありながら、なおかつ人間に対する希望を捨てていないサルトルという人間がいたこと自体が、いまでも小さな希望として消えていないのではないかと思えた一冊。

 

www.kotensinyaku.jp

【付箋箇所】
12, 22, 26, 47, 55, 72, 74, 77, 88, 118, 140, 155, 159

ジャン・ポール・サルトル
1905 - 1980

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ベニ・レヴィ
1945 - 2003

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海老坂武
1934 - 

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アルベルト・ジャコメッティ『エクリ』(原著 1990, 訳:矢内原伊作+宇佐見英治+吉田加南子 みすず書房 1994, 2017)

ジャコメッティ存命中に発表されたすべての文章を収めた書物。

ジャコメッティ愛好家必読の書物ではあるが、芸術家本人が書いたテクストだからといって絵画や彫刻と同じレベルの表現とはとらえないほうが無難。あくまで芸術家本人が綴ったところの参考資料と思っておいたほうがよい。ただし、巻末の7篇の対談は、創作活動の日常を脚色することなく語っているという点で、ジャコメッティの独自性がより顕著に表れているので興味深い。異なる対談相手に対して同じようなことを語っている点でも信頼がおける。
※矢内原以外の対談者に対してはモデルの眼差しをとらえることが最重要であると言っているのに対し、本書を含め矢内原がモデルの時は鼻の立体性と画布の平面性との折り合いに拘泥しているところに異質感が生じた。
※表現方法と表現者の適正によって表現できる範囲が違ってくるということについても残酷なまでに表現されているところを感じ取るのは結構つらい体験ではある。

ほかに見どころ読みどころっとしては、
・他書にはほとんど見られないデッサンの作品が数多く収録されていること
・詩作が無修正で収められていること
・対談相手が違ってもジャコメッティの志向性が変わらず明確に言語化されていること
といったところがある。

その他では、訳者のひとりである吉田加南子のあとがきがミシェル・レリスやジャック・デュパンのまえがきをも超える文章として最後に鎮座しているところに感動を覚えた。

※基本的に全篇飛ばさずに読んだほうがよい書物である

 

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【目次】
読者に
語るジャコメッティ、書くジャコメッティ  ミシェル・レリス
終わりなきエクリチュール  ジャック・デュパン
ジャコメッティ年譜

[既刊の文章]
物いわぬ動くオブジェ
七つの空間の詩
褐色のカーテン
灰となった草
昨日、動く砂は
実験的研究
アンケートへの回答
一九三四年の対話
私は私の彫刻については間接にしか語れない
アンリ・ローランス
ジャック・カロについて
夢・スフィンクス楼・Tの死
ピエール・マティスへの手紙(一)
作品の補足リスト
ピエール・マティスへの手紙(二)
盲人が夜の中に手をさしのべる……
物いわぬ動くオブジェ(新版)
灰色、褐色、黒……
一九二〇年五月
ドラン
私の現実
自転車と彫刻
ディドロとファルコネは考えが同じだった
私の芸術の意図
『脚』について
今日絵についてどのように語ればよいのか?
ジョルジュ・ブラック
終わりなきパリ
模写についてのノート
エドリカ教授の訃に接し
そんなものはみな大したことでない

[手帖と紙葉] 
子供時代の思い出
「芸術」のための…
魂と肉体は…
ぼくは今カフェに…
ぼくは同じ道を…
全身像と二つの…
彫像の作り方
彫刻
「すべての事物の…
純粋芸術
明日 一九二五年…
ぼくは散歩して…
「いかなる統御も…
光の中の金の…
水がきしる
帰ってきたら…
ぼくには哲学は…
あらゆるものの…
ぼくは、オブジェ…
問題
女が息子を…
決してフォルムの…
男と女
私達は、裸
生まれたのだ
オブジェか
批評、否
おれはすべての
リュリュ、リュリュ!
まだ九時だ
アルゴ船の乗組員
ぼくはもうこわく…
やさしい
すべてが夢の…
鐘が鳴る
批評、否
おぞましい
曖昧さが…
髪、剃った
三次元にわたる…
ブルトンは詩に
またAEARについて
無理だ、できない
もっと先まで…
ふう、ふう
いささかも調整…
女に対しての…
ウ、ア
フォルムの精神
ぼくは自分の…
すべてを歪曲する…
過去に作られた…
書くべきことは…
外の世界と…
あ、いたた!
実物を写して…
だが終わりという…
書く、何頁も…
ここで括弧に…
一覧表。何の…
奇妙な生
ぼくは絵や…
骨と化して…
空間を現実に…
ぼく、君
風景! 風景
ユーラシア
[G]多面体の…
テリアードのための…
ひと月のうちに…
これらのちょっと…
瞬間
ローマに旅行…
ぼくにはもう…
言う? 何を?
この部屋で…
まったく常軌を…
来週の初めに…
ディエゴがそのうち…
起きたら…
もし仕事をしたいなら…
ぼくは自分が…
このコワールの…
明日の朝は…
ぼくの手は…
そのことが起きて…
ぼくは状況を…
ぼくは今晩チューリヒを…
A. I. OU

[対話]
ジョルジュ・シャルボニエとの対話
ゴットハルト・イエドリカ博士との対話
矢内原伊作との対話
ピエール・シュネーデルとの対話
アンドレ・パリノとの対話
ピエール・デュマイエとの対話
ダヴィッド・シルヴェステルとの対話

原題・初出一覧
あとがき

 


アルベルト・ジャコメッティ
1901 - 1966

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矢内原伊作
1918 - 1989

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宇佐見英治
1918 - 2002

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吉田加南子
1948 - 

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石田英敬+東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(ゲンロン 2019)

世界規模のネットワークに常時接続されている世界を生きる現在の人間の在りようを現代記号論の立場から分析しより良き未来に繋げることを意図してなされた総計13時間を超える講義対談録。

基本的に東大教養学部時代の師弟コンビの再編となる高級コミュニケーションで、一般的読者は後れを取ることを覚悟しないといけないが、それぞれに思い描いている未来像はどうあれ、現状分析までは確実に傾聴に値する学知を提供してくれている。

グーテンベルクの書字複製アナログメディアの世界から20世紀初頭の電気科学的複製メディア社会に移行し、20世紀後半さらに世界規模のデジタル複製社会に推移する状況を言論をもって跡づける行為は傾聴に値する。

とりわけp44-45の時代推移図と、p229の心と身体の対応図にまとめられた思想の現在点は記憶するに値する。

20世紀初頭のフロイトフッサールソシュールの業績に敬意を表しながら、21世紀のデジタルネットワーク環境における人間のあり方を脳科学の最先端の知見とともに人文学的に思考しよりよく対応しようとする意志が強く伝わってくるなかで、政治経済的なアピールに関しては有効な手段を打ち出せずタンタル批評家に終わってしまっている感は否めない。

世界的ネットワーク社会においては、生産者(労働者)としては被抑圧者(マゾヒスト)であるのは言うまでもなく、消費者としてまでも抑圧者(サディスト)から被抑圧者(マゾヒスト)に成り下がってしまっている状況を取り上げて、開放の道が基本的に閉ざされている状況を示しているにとどまっている。

安心安全を最優先とした社会を普遍的ネットワークの存在によって実現しようとしつつある21世紀初頭の現状を、記号と情報の学問によって捉えなおし、最新の情報通信環境を意識的に生きなおすことで自由を確立しなおそうと提言しようとしているのが本書の意図のひとつであるとは思うのだが、決して前途が開けているわけではない。最悪の事態を考え、現状から未来にかけての可能性についても楽観視せず、批判的に思考しながら尚且つニヒリズムに落ち込まない方向を堅持することが必要なのだと思う(ただ、全体としてエリート層の言説なので、そこから溺れてしまっていると思うものは―反発まではしないが―ちょっとシラケざるを得ず、ニヒリズムの克服は別経路で納得するものが必要になってくると思う)。

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【目次】
はじめに 
講義 石田英敬東浩紀
 第1講義 記号論脳科学
 第2講義 フロイトへの回帰
 第3講義 書き込みの体制(アウフシュライベジステーム)2000
補論 石田英敬 4つの追伸 ハイパーコントロール社会について
おわりに

【付箋箇所】
9, 11, 19, 20, 22, 24, 25, 28, 29, 31, 33, 38, 40, 42, 45, 47, 48, 89, 96, 109, 142, 164, 167, 172, 180, 194, 205, 206, 221, 234, 250, 255, 262, 263, 266, 272, 279, 281, 306, 309, 313, 316, 318, 325, 327, 331, 364, 365, 380, 387, 392, 400, 410, 415, 417, 422, 428, 433, 435, 437, 

石田英敬
1953 - 

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東浩紀
1971 - 

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ヒド・フックストラ編著 嘉門安雄監訳『画集レンブラント聖書  旧約篇』(原著 1982, 学習研究社 1984)『画集レンブラント聖書  新約篇』(原著 1980, 学習研究社 1982)

聖書に題材をとったレンブラントの作品を見ていると、対象となっている聖書の記述を確認したくなる気持ちにさせられる場合が多くあるのではないだろうか? レンブラントの聖書の場面は、いわゆる聖画一般のイメージとは異なり、描かれている人物たちは貧しく卑俗で到底聖性があるようには見えない。光と闇の画家レンブラントならではの聖化の表現は一貫してあるものの、人物造形としてはイエスやマリアやヨセフは貧民層の表現を超えていない。レンブラントが描くところのイエスはいかがわしさと隣り合わせの呪術者兼革命家(最近の言葉でいえばインフルエンサー)と変わりないし、マリアは母性的な田舎娘であり、時を経ては老婆にすぎず、イエスの父ヨセフは弟子もいないような貧乏な大工職人でしかない。一般的に流布している聖なる家族のイメージや、イエスの奇蹟を含めた言行は、地上の卑俗な一人物のものとして描ききられている。その卑俗さ加減が聖書の記述とどの程度の整合性があるかというところが気になり、聖書の該当箇所を読んでみたりもするのだが、厳密な描写は聖書にはなく、レンブラントの表現もあながち間違ってはいないというか、神の子である確信を持てないような卑小な存在としてのイエスに対する同時代人としての感覚としてはむしろ正しいものではないかという思いが湧いてくる。正しいのかもしれないが、妙に人を苛立たせ、モヤモヤ感を残した状態で勝手に次の次元へと進んでしまう人。聖人というよりは異質で異能な人、常に一緒にいるのは困難だけれど煩くて且つ無視しがたい隣人。キリスト教信者でなくても、まあなんて人なのだろうという俗なる関心を持たせてくれるのがレンブラントの聖書の存在価値であると思う。

幼児イエスに乳を与える聖母マリア、裸足で歩くヨセフ、神殿から商人を追い払う激高の人イエス、ラザロを復活させる妖しいイエスとゾンビのようなラザロ、十字架の受難での痛々しいイエス、復活した後で帽子をかぶり鋤を持った農民風のイエス。聖人として崇められるよりも、より近くにいる存在として迫って来て、考え感じることをいつの時代になっても要請する人々の姿がそこにある。

新約聖書のエピソードと同様に、旧約の人々も世俗的で日常と地続きの感覚のうちに見事に再構成されて作品の中で息づき、見る者の心を動かしてくる。

制作年代や制作手法の違いから表現の方向性に違いは出てくるものの、レンブラントならではの人間観察と近代レアリスム的な表現手法による独特の質量感には共通するものがあるのであろう。その作品が、今なお精神世界の尽きせぬ源泉となっている新旧聖書の文言とともに提示されていることは、日本に住む異教の者たちにとって興味深くも大変貴重な学びの場となっている。宗教的関心や学問的関心からでなく、芸術的なものについての好奇心から異世界であり異文化であるものに触れられるのは喜ばしいことではないだろうか。


レンブラント・ファン・レイン
1606 - 1669

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