講義
哲学者アラン・バディウがいうところの「反哲学」とは、知的な至福の可能性と真理をめぐる思考である哲学の信用を失墜させるような仕方で同定した上で、哲学とは異なった思考の布置の到来であるような「行為」を引き受ける思考のスタイルを指していて、バデ…
金沢市の書店「石引パブリック」で2019年に開催された全11回の連続講座「仲正昌樹と考える:哲学JAM」を書籍したもの。三分冊で赤、青、白と分けられている。 仲正昌樹+作品社+連合設計社市谷建築事務所から成る入門講義シリーズとはちょっとテイストが変…
西田幾多郎『善の研究』(1911)と和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(1934)の読解講義。とりあえず両作ともに目を通したことがあるところで本書を読んだ印象では、仲正昌樹の入門講義シリーズは、対象となった哲学者やその著作がおおよそどのようなこと…
ハイデガーのトラークル論をデリダが脱構築的に読み直し論じた講義録。単純に詩人トラークルが好きだからということで手に取って読んだとすると、ハイデガーもデリダもなに言ってんのということになりかねないし、トラークルの詩の印象からはかなり隔たって…
20世紀前半、第一次世界大戦終結からヴァレリー晩年の第二次世界大戦終結期までに発表された講演や式辞、エッセイを集めた一冊。西欧精神の優位と没落を併せ語っているところに機械文明・機械産業膨張期に対しての旧世代最後の抵抗がきこえてくる。抵抗と…
「フロイトに還れ」を旗印に20世紀以降の精神分析学の一大潮流を作ったラカンの20年にもおよぶ講義の11年目の講義録。精神分析の四つの基本概念である「無意識」「反復」「転移」「欲動」について、分析家の養成を目標に置きながら講義がすすめられて…
ロールズのマルクス講義では、マルクスが考えていた理想社会を、『資本論』のなかでよく使われる呼称から「自由に連合した生産者の社会」と呼び、その実現段階としては「社会主義」と「共産主義」があるとし、このふたつの段階の差異として、『ゴータ綱領批…
ロールズのミルの講義は、自身の考えとの近さゆえにほかの思想家よりも分量も多く自身の見解を深く織り交ぜながら展開されている。目指しているのはともに最大幸福の実現で、ミルの場合は効用原理、ロールズの場合は格差原理からのアプローチと、ことばは違…
共通善は common good であるので、翻訳では消えてしまっているけれども共通財とも常時かぶせて読んでくれというようなことが翻訳者側から注意として書かれていたような気がすることをルソーの講義では思い出した。 一般意志は共通善を意志するのですが、そ…
ホッブズ、ロックの社会契約説からヒュームとミルの功利主義へ講義は移る。自然法による原始の契約から効用の原理での合意選択へのイギリスの政治思想の流れをみながら、ロールズは経験主義哲学者でもあるヒュームの政治思想の面を、主にロックとの対比で語…
古典は今現在の視点で批判しても意味はなく、それが書かれた当時の状況において、どのような問題を解決するために書かれたかを考慮しつつ読む必要があるというまっとうな指摘は記憶に残ったが、ロックのどこら辺に限界があるのかはあんまり残らなかった。ロ…
ロールズがシジウィックの功利主義について考察している際に、否定的というか、強いられたとすれば嫌悪感をもよおすであろう人間のタイプのとして提示されたものに、逆に、自主的には望むべき人間のタイプなのではないのかと強く感じたために、ロック、ヒュ…
マイケル・サンデルの白熱教室のような討論形式の講義ではなく、オーソドックスな教授型の講義が目に浮かんでくるような講義録。特徴的なのは、ロールズの人柄がそうさせるであろうような誠実さと慎重さを基本にそえた論考の姿勢と、学生たちへ提供された資…
歴史上の階級間闘争のなかで政治的妥当を精査する層が変化していったということを、まずは序論で確認しておく。 リベラリズムの三つの主要な歴史的源泉は次に挙げるものです。第一に宗教改革、および一六世紀、一七世紀の宗教戦争。この戦争はまず、寛容と良…
自由と平等を守り保つのがおそらく正義。しかしながら、自由と平等は相性があまりよくない。平等も、何時の誰の立場のどの部分どの範囲における平等かということで、定義も評価も変わってくる。徴税と再分配を司る国家行政運営部門にも取り分があり、そこが…
エルンスト・ブロッホは異化の思想家であるとともに希望の思想家でもあった。それぞれの思想を語る際に共通しているのは、世界が変容する現在の現われに対して明晰な視線を投げかけているところ。 希望は、自由の王国と呼ばれる目的内容に従いつつ、投げやり…
フレーゲとラッセルの論理学研究からはじまり、クワイン、ウィトゲンシュタインなどの業績を経て、最近議論されることの多い心身問題、心脳問題、クオリアに関わる論点まで、入門書と言いながら、各講義で各トピックの概略図を示したあとに、読者に向けて自…
美術の棚にあったけれど、著者自身があとがきで書いているように宗教学の本。出版社のサイトにもジャンルは哲学・宗教学と書いてあったので、美術の歴史や技巧や洋の東西の美術的な差異などについての記述を期待していると裏切られる。宗教画や禅画の図版は…
NHKの白熱教室に出てきそうな大学講師の講義録。マイケル・サンデルの講義録と言われてもそれほど違和感はない。今世紀初頭に流行した一般的なスタイルであるのだろうか。寛容・非寛容の判断にいたる前段階で、厳密な吟味を経ない共存・併存が可能であるよう…
思惟するものとしての私と対象としての物との「間」というのがハイデッガーのほかの著作でいうところの「存在」であるというような印象が残った。 カントは、彼の著作の終わりの部分(A737, B765)で純粋悟性の原則について次のように述べている。《純粋悟性…
現代的な東洋思想に対する期待に対して、東洋哲学正統からの一般的見解として、大乗仏教の守備範囲を明示してくれるありがたい一冊。入門書とはいえ、学問的境界に対する感度は極めて敏感であると感じた。基本的に著者鎌田茂雄は科学との容易な連合には否定…
小分けに読んで、部分的な感想を書きながらの読書だったので、一気読みよりは内容が頭に残っているような気がする。講義録だったので、日々の区切りもつけやすかった。 【投稿一覧】10/10 02:14 00. 準備 大きな作品は風呂場で読むと意外と読み通せる 10/10 …
常に存在する主体の円環的構造とそこに息づいている言葉、霊息。計算し出力する複数の身体と環世界の交感。渦巻く生存圏。 力への意志としての存在の投企 存在と存在者の区別と人間の自然[本性] 空虚と豊饒としての存在 およそいかなる言葉も言葉であるかぎ…
『存在と時間』で論じられる計画であった時間性の問題について扱った講義録。カッシーラーによってカントを自分の考えに引きよせすぎと批判されて、後にその批判を受け入れているという一冊。逆にハイデッガーの方向性というものはよく出ているのかもしれな…
存在の本質が、表象であり思惟であるということをストレートに論じているハイデッガーの論考にしては珍しい部分。ニーチェの力への意志が出てくる前提としての哲学の歩みをプラトンのイデア―デカルトのコギト―カントのカテゴリーと辿っている。 形而上学の終…
ハイデッガーがデカルトの省察から自由を論じている部分が興味深い。 デカルトとプロタゴラスの形而上学的な根本的境涯 デカルトに対するニーチェの態度表明 デカルトとニーチェの根本的境涯の内的連関 人間の本質規定と真理の本質 誤りうるということは欠陥…
永遠回帰を肯定し、目標なしに生を肯定することを価値とする超人が、いつの間にか地球の支配者としての地位につけさせられている。「ヨーロッパのニヒリズム」は1940年に行われた講義。さすがに現代では地球支配ということを表立って表明する人は少数派…
超人が地球を支配するという言葉だけピックアップしてくると、どうしても優生思想がちらつくが、奴隷を必要とするような主人がニーチェの超人というわけではないだろう。 ニーチェの歴史解釈における主体性 形而上学についてのニーチェの《道徳的》解釈 闘争…
価値の計算が何にもとづいておこなわれているかということについては生成の軸一辺倒なのだけれど、果たしてそこに見落としはないのかという疑問は残る。エロスに対するタナトス、生成に対する消滅への衝動といったものを考慮しなくていいものだろうか。 カテ…
ヨーロッパのニヒリズムについて探求が深められていく。意志の向かう先が絞り込めない状況の根底には、生成するこの世界の過剰がある。 三 ヨーロッパのニヒリズム ニーチェの思索における五つの主要名称 《最高の諸価値の無価値化》としてのニヒリズム ニヒ…