読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『西行全歌集』(岩波文庫 2013, 校注:久保田淳・吉野朋美)


岩波文庫西行といえば、しばらく前までは佐佐木信綱校訂の『山家集』(1928)だったが、近年は西行歌の全体像に触れられる『西行全歌集』約2300首が新たに出ている。人気があってずっと読まれている歌人というのは、やはり恵まれている。『西行全歌集』のなかにも登場し、西行とも関係の深い崇徳院の歌の扱いなどとは雲泥の差だ。政治的な敗者としての恨みを想像されて怨霊化させられてしまうばかりで、後の世の歌人としての不遇のために怨霊化したなどという話にはならないところが、文芸がはじめから持ち合わせている弱さなのだろう。歌のために怨霊化したら、怨霊化後の歌も出てこなければおかしいし、そのように仮託された歌を作り出すのも物語をつくるよりも難しいのであろうから致し方ない。西行はその点でも「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠い、自己演出の極致でそのとおりに死んだために伝説化もされて、ずいぶん得をしている。

本書『西行全歌集』では、『山家集』の外でなされた西行の二度の自歌歌合と判者俊成、定家の絡みあいが見られるところが画期的。西行嫌いを公言しながら『西行百首』を書いた塚本邦雄が、それでも瞠目した「御裳濯河歌合」(1187)から『新古今和歌集』(1205)に採られた秀歌を、元の姿のまま確認することができる。

彼の秀歌は、新古今集入撰の『御裳濯河歌合』作品に尽きる。

あるいは

私自身は西行嫌いで通っている。断っておくが私は、うるさいくらい繰り返したように、御裳濯河歌合の七十二首中から、新古今集に採られた作にほとんど渇仰に近い愛着を覚える。

以上引用が塚本の西行評の基本的姿勢であるが、実際に「御裳濯河歌合」の七十二首中から『新古今和歌集』に採られたのは、十九首とかなり多く、そのなかには西行の恋の歌には碌なものがないといわれている恋の歌も含まれているので、実際のところはもっと厳しい評価なのであろうと思わせもする。この場合、『新古今和歌集』の西行歌に関しては、入撰九十四首の中から十三首削除された、後鳥羽院切り継ぎ後の讃岐本を指している可能性もある。

西行の「御裳濯河歌合」から採られた『新古今和歌集』入撰策のなかでも、手放しで褒めているのは以下の歌。

心なき身にも哀は知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

(御裳濯河歌合36, 新古362)

ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる

(御裳濯河歌合31,  新古218

あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原

(御裳濯河歌合33, 新古300)

きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく

(御裳濯河歌合41, 新古472)

津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり

(御裳濯河歌合58, 新古625)

人は来で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く

(御裳濯河歌合53, 新古1200)

 

「彼の秀歌は、新古今集入撰の『御裳濯河歌合』作品に尽きる」と言ってはいても、ほかの作品をちゃんと褒めているところも塚本邦雄らしい。

「都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬすさびなりけり」は「深き山にすみける月」と、最も近似した一首であるが、「都にて」に単刀直入、ひたと迫って来る言葉の冴えが、理がましさを越えて絶品としたい。

また「月冴ゆる明石の瀬戸に風吹けば氷の上にたたむ白波」に対して、

「氷の上にたたむ白波」。善い哉。

と言っているところなど、ぐっと親近感がわく。

塚本邦雄にも導かれながら、西行73年の人生の多面性を味わうことのできた『西行全歌集』だった。

※今回付箋を付けた歌は、おそらく今の私を現わしているだけで、時がたてばまた別の鑑賞の仕方になるのだろうと思う。

 

【付箋歌】
[山家集]
23, 124, 168, 326, 401, 414, 425, 452, 457, 470, 495, 496, 574, 628, 646, 723, 739, 754, 800, 876, 1227, 1311, 1314, 1447
[聞書集]
9, 99, 110, 133, 184, 212, 220, 
[残集]
29
[御裳濯河歌合]
12, 16, 22, 36, 39, 41, 55, 56, 59, 
[宮河歌合]
29, 31
[松屋山家集]
32, 58, 59
[西行法師家集]
1, 31, 38, 47, 57, 86, 113, 135
[撰集ほか]
9, 18, 49, 54, 

 

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目次:
山家集
 春
 夏
 秋
 冬
山家集
 恋
 雑
山家集
 雑
 百首

聞書集
残集
御裳濯河歌合
宮河歌合
拾遺

補注
校訂一覧
解説:久保田淳
初句索引

西行
1118 - 1190
崇徳院
1119 - 1164
久保田淳
1933 - 
吉野朋美
1970 - 
塚本邦雄
1920 - 2005

 

塚本邦雄『西行百首』(講談社文芸文庫 2011)

西行嫌いを公言していた塚本邦雄が70歳を越えてから雑誌「歌壇」に二年間にわたって連載していた異色の西行評釈。百首のうち曲がりなりにも褒めているのは三分の一程度で、それ以外は完全に否定しているか、もしくはほかの歌人西行自身のエピソードを語るための入り口としてしか評価されていないような、不思議な書物になっている。

「願はくは花のもとにて春死なん」の歌どおりの死を用意したことを頂点としたさまざまな自己劇化の傾向を生臭いと嫌い、また勅撰和歌集に撰出のされるために、『千載和歌集』の撰者俊成とその息子定家に、撰歌資料となるように自歌歌合の判者をなかば無理やり務めさせたりしていて、その出家者にあるまじき執着心を批判するという、多くの西行論のなかではなかなか見られない西行評であり、西行の人物像が収められている。本書で知る西行は、歌も行動も多面的で、かなり新鮮である。

さらに、西行の歌が脇役になる章では、『御裳濯河歌合』の判者であり『千載和歌集』の撰者である俊成、『宮河歌合』の判者であり『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者である定家、そして『新古今和歌集』の実質的独撰者であり隠岐本で多くの掲載歌削除を行った後鳥羽院の判定を批判的に考察したり、時に西行の歌に対する鋭い鑑識眼を評価していたりして、西行について語りつつも『新古今和歌集』の塚本邦雄の徹底した読み方を伝えることのほうが主となっている。そこでは、西行の歌も含まれる『新古今和歌集』の編集の妙と、西行を上回る歌才を持っていると著者によって見なされている藤原良経、定家、俊成、家隆、式子内親王の歌が褒め上げられていて、極めて特殊ではあるが核心を抉る『新古今和歌集』論にもなっている。また、第八勅撰和歌集新古今和歌集』94首についで57首と西行の歌が多くとられている第十四勅撰和歌集玉葉和歌集』については、京極為兼の見識と永福門院の歌才が印象的に取り上げられて、京極派による西行リバイバルと歌の革新が指摘され、『玉葉和歌集』と京極派への優れた導入ともなっている。実際、私はこの『西行百首』を読むことで、『玉葉和歌集』や京極派の歌人たちの本に手を伸ばすことになったのだった。

褒めるべきところは褒め、批判するところは徹底して批判する、その態度は、西行ばかりではなく、西行の歌に対する判者である俊成、定家、後鳥羽院にも貫徹されていて、ある種の凄まじさを感じさせる。晩年を迎えるなかで、最後に乗り越えるべき問題の象徴としての歌人西行に、渾身の力で挑んだ末に成し遂げられた、火の出るような見事な業績。

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【付箋箇所】
8, 11, 19, 21, 23, 26, 27, 29, 30, 32, 40, 54, 75, 81, 83, 84, 94, 97, 106, 108, 110, 112, 118, 123, 133, 134, 135, 146, 150, 152, 155, 157, 165, 173, 176, 182, 193, 216, 223, 224, 227, 252, 258, 264, 271, 273, 276, 280, 282, 286, 290,294

塚本邦雄
1920 - 2005
西行
1118 - 1190
藤原俊成
1114 - 1204
藤原定家
1162-1241
藤原良経
1169 - 1206

 

マーガレット・アトウッド『パワー・ポリティクス』(原著 1971, 彩流社 出口菜摘訳 2022 )

やや人生に疲れの見えだしたところで出会った男女二人のうちの女性側の視点から、互いの固定観念と日常性のなかに埋没していくことへの抵抗感を詠った詩、といったところだろうか。約50年前、著者32歳の時の作品で、五番目の詩集。男性側は左翼政治活動をしている地域のリーダー的存在、女性側は冷めた目を持つ作家というイメージ。どことなく中年層の悲哀のようなものが全編通して漂っている。捉え方を変えれば平凡な幸福の枠内に収まりもしよう関係性ではあるのだが、そこは文芸作品なので不穏な空気がずっと流れている。複数の人間が登場しないと物語は動かないということも確かだが、技巧的に優れているとはいえ、関係性の負の面のコレクションをわざわざ並べ立てられると、独りを選択しながら書くという道はないものかと、批判的に考えもする。それだと『パワー・ポリティクス』という題にふさわしい内容にはならないだろうけれど…

わたしのスーツケースと恐怖心を照らす
あぁ電灯の光よ

(四行略)

この罠からわたしを救い出してください、
この体、あなたのようにしてください。
閉じていて有用なものに

「閉じている」「電灯」に呼びかけているところは新鮮だが、「有用なものに」と願う「罠」の変わらないはたらきが顔を出しているところにも興味は魅かれる。こうした部分を拡げていけるのならば、どういった作品が可能なのだろうかと、探っていきたい気にもさせる。

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目次:

彼はふたたび現われる
彼を避けようと彼女は考える
彼らは外食する
彼は異様な生物学的現象である
彼らの態度は異なる
彼らは空を旅する
些細な戦略 もっと良いやり方がある
彼は東から西へ向かう
彼らは敵国
扉のそとでのためらい
最後に目にした彼

マーガレット・アトウッド
1939 -
出口菜摘
1976 - 


    

『堀河院百首和歌』(1105年頃成立 明治書院和歌文学大系15 2002)

はじめての大規模な組題百首和歌の集成で、後の世の百首詠の規範とされ、思ってもみないような文化的拘束力も生じるまでになった歴史的な業績。たとえば和歌に詠まれる千鳥が冬の景物として定着するようになったのは堀河百首で冬の題に入れられたことによるもので、それまで千鳥が冬の鳥として意識して詠まれるようなことはなかったという。
成立時期は1105年から1106年にかけてのあいだで、藤原通俊撰の第四勅撰和歌集『後拾遺和歌集』(1086年)と源俊頼撰の第五勅撰和歌集金葉和歌集』(1126年)を繋ぐような位置にある。

詠者16人、1600百首の詞華集で、ひとつの題に16人16首が並んでいるところが特徴。目が覚めるような歌が並んでいるというわけではないが、それぞれの歌人の味わいが順番に繰り返されるリズムは、悪いものではない。

題は以下百。

【春】
立春・子日・霞・鶯・若菜・残雪・梅・柳・早蕨.桜.春雨・春駒・帰雁・呼子鳥・苗代・菫菜・杜若.藤.欸冬・三月尽
【夏】
更衣・卯花・葵・郭公・菖蒲・早苗・照射・五月雨・盧橘・螢・蚊遣火・蓮・氷室・泉・荒和秡
【秋】
立秋・七夕・荻・女郎花・薄・苅宣・蘭・萩・雁・鹿・露・霧・槿・駒迎・月・擣衣・虫・菊・紅葉・九月尽
【冬】
初冬・時雨・霜・霰・雪・寒蘆・千鳥・凍・水鳥・網代・神楽・鷹狩・炭竃・埋火・除夜
【恋】
初恋・不被知人恋・不逢恋・初遇恋・後朝恋・過不逢恋・旅恋・思・片思・恨
【雑】
暁・松・竹・苔・鶴・山・河・野・関・橋・海路・旅・別・山家・田家・懐旧・夢・無常・述懐・祝詞

詠者は掲載順で以下16名。

藤原公実
大江匡房
源国信
源師頼
藤原顕季
藤原顕仲
藤原仲実
源俊頼
源師時
源顕仲
藤原基俊
永縁
隆源
肥後
紀伊
河内

題が与えられて、皆それなりの歌を出してきているのだから、歌人を名乗る人たちはやはり大したものなのだ。

照射(ともし)、国信歌:
雲間なき五月の山の木(こ)の下はともしするにぞ星と見えける

七夕、顕仲歌:
彦星の天(あま)の岩船船出してこよひや磯に磯枕する

鷹狩、顕季歌:
白塗(しらぬり)の鈴もゆらゝに磐勢野に合せてぞ見る真白斑(ましらふ)の鷹

 

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【付箋歌】
7, 56, 157, 347, 419, 466, 473, 586, 678, 752, 799, 823, 965, 979, 1040, 1061, 1082, 1261, 1472, 1493, 1577, 

 

藤原俊成『古来風躰抄』(初撰本1197, 再撰本1201 小学館新編日本古典文学全集87 歌論 訳・校注有吉保 2002)

式子内親王(1149-1201)が『千載和歌集』編纂の仕事を終えた藤原俊成(1114-1204)に依頼して執筆されたものとされる歌論。一般に歌をどのように詠むのがよいかという趣意を書きあらわすことを、当時たいへん貴重であった紙を贈られるとともに要請された。初撰本が書かれたのが俊成84歳の時で、それを考えると老体にも関わらず立派な仕事をなし遂げていることに、まず賛嘆の念を抱く。
『古来風躰抄』は、歌論といいながらも、実際は『万葉集』から『千載和歌集』までにいたるまでの秀歌アンソロジーといった趣きが強く、俊成のコメントは冒頭の導入解説部分を除くとピンポイントでごく少量スパイスのようにちりばめられているだけである。『万葉集』から191首、『千載和歌集』までの七つの勅撰和歌集から400首弱を選出していて、その選択にこそ俊成の鑑識眼がいちばんよく働いていると思われるのだが、これは現代の目から見ると、すでに俊成やその息子の定家の活動の影響下にあるために、独自性がいまいちわかりづらくなっている。『小倉百人一首』などに採られてすでに有名になっている歌が多く含まれているために、俊成の鑑識眼の特異性が見えにくくなってしまっていて、採られなかった多くの歌と比較して改めてその歌のどこがよいのか考えるまでにはいたらないせいであろう。この辺は俊成ー定家の歌の良し悪しの判定に異を唱える人、例えば塚本邦雄のような人たちの発言と比較しながら自分で読み取っていくほかないことであろう。

まあ、そんなことを考えなくても一つの優れたアンソロジーとしてかなり容易に享受することができるめずらしい古典作品であるので、百人一首鑑賞の延長のような感覚で読み取っていけばいいものであるとも思う。

特徴としては、歌というものは時代によって変化していくものであるということを大前提として語り、その意識に沿って時代ごとの代表的な歌を選出していることで、編纂のスタイルも『万葉集』から時代を下って直近の『千載和歌集』まで詞華集ごとに歌の特徴を出そうとしていることが読み取れる。

万葉集』収録歌は万葉仮名と俊成による仮名読みの併記になっているために、『古今和歌集』以後の仮名表記との時代的な違いが強く印象付けられる。万葉仮名は仮名といっても実際は漢字で、その表記が主流である限り利用できる層は仮名文字に比べてだいぶ知識層寄りに制限される。万葉仮名から仮名表記に代わることで文字習得が容易になり、仮名表記で表現し流通させることが驚くほど盛んになったことが俊成のコメントからも感じ取れるようになっているところがなにより素晴らしい。読みすすめるだけで、そのことが無理なく納得できるのだから、これは貴重な批評的営為なのである。朗詠主体の歌の発生に、文字での生産と流通と消費蓄積が組み込まれるという一大事が、なにはともあれ肌感覚で現代においても感じられるのだから、体験しておかない手はない。『万葉集』の歌が全体の約三分の一という大きな比率で取りあげられているところが、俊成の編集感の冴えているところだと、後の世から見ると称賛したくもなる。

沙弥満誓の歌(万葉 巻三 354)
世間乎 何物尓将譬 旦開 榜去師船之 跡無如
世の中を何に喩へむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟の跡なきごと


俊成と式子内親王の歌はそれぞれ一首づつ、『千載和歌集』収録の歌から採られている。

式子内親王(夏 147)
神山の麓に馴れし葵草引き別れても年ぞ経にける

俊成(秋上 259)
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里

『古来風躰抄』作成依頼者である式子内親王が、出来上がったものを微笑みながら見ている姿がなんとなく想像されるのだが、その想像はそれほど間違ったものではないだろうと、勝手ながら満足している。


藤原俊成
1114-1204

式子内親王
1149-1201

有吉保
1927 - 2019
    

『玉葉和歌集』(第十四勅撰和歌集 伏見院下命、京極為兼撰、1321年成立 明治書院和歌文学体系39、40 中川博夫著 2016,2020)

定家晩年の主張を引き継いだ平明流麗な歌を良しとする主流の二条派に対して、心のはたらきを重視し、それに見合う言葉を生み出すことを主張し、新たな和歌表現をもたらした、京極為兼を中心とする京極派が、京極派の歌人でもある伏見院が実権を握った時を見て、早急に編まれた勅撰集。

21ある勅撰和歌集のなかで最大の2800首を収め、万葉集時代の歌から前勅撰集の時代までの埋もれて採られることのなかった秀歌の数々と最新の京極派の歌までを、京極為兼の冴えわたった編集で、興味深く読みすすめることができる最新オールスター的詞華集。『新古今和歌集』に込められた美学への称賛を惜しまない前衛歌人塚本邦雄も、『風雅和歌集』とともに評価する、八代集以後の勅撰集のなかで質の高い撰集。

代表的な歌人は伏見院、永福門院、京極為兼、京極為子、西園寺実兼など。修辞のない平易な言葉を用いながら生き生きとした心の動きをとらえて詠いあげる歌風は、四代前の定家のいた『新古今和歌集』やそれ以前の時代の言語感覚から抜け出て、新しさとともに軽さを持った世界を作り上げている。当時異端とも言われた京極派の新しさが、今読んで容易に想像できるのは、やはりすごいことなのだと思う。

永福門院
木々の心花近からし昨日今日世はうす曇り春雨の降る
京極為子
あはれにもこと遠くのみなりゆくよ人の憂ければ我も恨みて
京極為兼
言の葉に出でし恨みは尽き果てて心にこむる憂さになりぬる

 

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【付箋歌】
16, 33, 65, 68, 80, 121, 132, 164, 232, 240, 286, 332, 377, 397, 407, 417, 484, 509, 552, 589, 603, 618, 643, 695, 725, 731, 803, 847, 879, 899, 903, 909, 934, 936, 949996, 1022, 1036, 1075, 1230, 1246, 1351, 1376, 1483, 1496, 1527, 1551, 1624, 1647, 1691, 1705, 17061720, 1723, 1767, 1774, 1779, 1793, 1803, 1804, 1870, 1871, 1875, 1884, 1911, 1932, 1953, 1956, 1991, 2028, 2050, 2056, 2059, 2060, 2064, 2123, 2159, 2168, 2227, 2241, 2249, 2252, 2253, 2256, 2264, 2293, 2299, 2368, 2419, 2443, 2543, 2559, 2578, 2589, 2679, 2688, 2721, 2722, 2769, 2798 

伏見院
1265 - 1317
京極為兼
1254 - 1332

 

後鳥羽院応制『正治二年院初度百首』(1200, 明治書院和歌文学大系49 2016)

新古今和歌集』(1205)編纂にに向けて当代の筆頭歌人23人に百首歌を詠進させ、後の世から見ればひとつの時代を画することとなった記念碑的な応制百首。

当初、俊成を擁する御子左家の歌人、殊に定家が詠進者の中に含まれていなかったところを、和歌の世界の重鎮である俊成自身がおおいに動いて、息子定家をメンバーにねじ込むことに成功しなければ、日本の歌の世界は現実とはかなり変わったものになっていた可能性があるところが興味をそそられる。

この百首歌で後鳥羽院が定家に目を留めなければ、『新古今和歌集』の撰者に定家はなっていなかったであろうし、『新古今和歌集』にいたるまでの数々の歌の宴で定家が己の資質を開花させていくこともなかったであろうことが想像されるのだ。

不惑に届こうとするいい年をした人間が、老いた父親の助けを借りてようやく陽の当たるところに出てきて、傍から見れば博打のような歌いぶりの歌を披露している。『正治二年院初度百首』には、後鳥羽院自身をはじめとして、式子内親王、藤原良経、慈円藤原家隆など、鮮烈な歌風を吹き込む歌人が多くの歌を残しているのだが、定家はそのなかにあって新しいなどという表現では済まされないような、和歌という世界のルールから一歩半歩はみ出しかねない独特な歌を提示している。

掲載どおりの順番に読んでいくならば、新しさもありながらふくよかに完成された佇まいを持つ家隆の歌に比べて、この百首歌の定家の歌はとてもバランスが悪いような印象を与える。定家の百首は、従来の31文字で表現する歌の世界から見れば、過剰な言葉と内容を入れ込んで、その上で和歌としてのうるわしい姿を新しく作り上げようとしている奮闘が見える。そのため、『正治二年院初度百首』においては、一人だけ違ったルールのもとにプレイしているプレイヤーのような不思議な印象を受けるのだ。

諸手を挙げて評価できるというような、万全の歌などでは決してないが、何時までも色褪せない青臭さがこの定家の百首歌には満ち満ちている。いい年をした中年の、あまり褒められたものではない、芸道の一段階。

定家以外にも秀歌はいくらでもあるし、目の付け所もほかに色々ある。若き後鳥羽院と惟明親王にみられる紛れもない歌才とそのみずみずしい発露や、老齢の小侍従の歌の可憐繊細な詠いぶりなど、心すくような、濁りを残さないような歌はある。

それにもかかわらず、澱のように心に残るのは、中年定家のどちらかといえばみっともないチャレンジであったりする。

定家は数え80歳まで、父親の俊成は91歳まで生きた。御子左家は長寿の家系のようで、そのことも、個人の命運にも、家の運命にも、良いほうにはたらいてくれたようである。与えられた武器と、創りあげた武器で、戦い続けられるだけ戦っている各人の姿が、歌や歌論や判詞を通して今でも蘇って来てくれるのは、後世に生きる者にとってのひとつの武器であり、一片の救いでもある。

御子左家の人物の生は、いまでも生々しい。

 

定家詠:
秋暮れてわが身時雨とふる里の庭は紅葉の跡だにもなし

待つ人の来ぬ夜の影に面(おも)慣れて山の端(は)出(いづ)る月も恨めし

庭の面(おも)は鹿のふしどと荒れ果(はて)て世々(よよ)ふりにけり竹あめる垣

 

時間の経過と空間の重層化を共に31字のなかで表現しようとして成功している歌であるが、歌の姿、言葉のトータルなプロポーションは、歌ごとに独特である。言葉自体の情報量が多く、意味解釈に柔軟性をもたせる言葉同士の繋がりも多層化していて、単純な像に収まろうとはしない。

【付箋歌】
後鳥羽院(1180-1239, 享年60, 詠進時21)
9, 25, 26, 32, 52, 61, 97, 
三宮惟明親王(1179-1221, 享年43, 詠進時22)
110, 118, 166, 175, 193, 196, 
前斎院式子内親王(1149-1201, 享年53, 詠進時52)
208, 211, 221, 229, 230, 242, 252, 273, 274, 
御室主覚法親王(1150-1202, 享年43, 詠進時51)
314, 336, 338, 353, 358, 390, 
藤原良経(1169-1206, 享年38, 詠進時32)
428, 431, 448, 455, 466, 479, 497, 
源通親(1149-1202, 享年54, 詠進時52)
578
慈円(1155-1225, 享年71, 詠進時46)
662, 667, 690, 
藤原忠良(1164-1225, 享年62, 詠進時37)
719, 728, 733, 765, 777
藤原隆房(1148-1209, 享年62, 詠進時53)
821, 
藤原季経(1131-1221, 享年91, 詠進時70)

藤原経家(1149-1209, 享年61, 詠進時52)
1044, 1048, 
釈阿藤原俊成(1114-1204, 享年91, 詠進時87)
1137, 1150, 1170, 
藤原隆信(1142-1205, 享年64, 詠進時59)
1243, 1263, 1267, 
藤原定家(1162-1241, 享年80, 詠進時39)
1311, 1323, 1353, 1357, 1365, 1374, 1380, 1393
藤原家隆(1158-1237, 享年80, 詠進時43)
1408, 1427, 1432, 1442, 1443, 1460, 1464, 1465, 1467, 
藤原範光(1154-1213, 享年60, 詠進時47)
1543, 1544, 1562, 
寂蓮藤原定長(1139?-1202?, 享年64, 詠進時62)
1609, 1633, 1634, 1635, 1653, 1654, 1696, 1697
生蓮源師光(1131?-1203?, 享年73, 詠進時70)
1710, 1740, 1782, 1789, 
静空藤原実房(1147-1225, 享年79, 詠進時54)
1811, 1852, 1853, 
二条院讃岐(1141-1217, 享年77, 詠進時60)
1989, 1997, 
小侍従(1121?-1201?, 享年81, 詠進時80)
2028, 2045, 2071, 
宜秋門院丹後(?-?, 詠進時50前後)
2143, 2169, 2182, 
信広(仮構の人物)
2233, 2249, 

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